さりはま書房徒然日誌2023年8月27日(日)旧暦7月11日

移りゆく日本語の風景ー豆腐ー

今日は北区北とぴあで開催された「初めての文楽〜その参 妹背山婦女庭訓 金殿の段」を観てきた。

上演前の技芸員さんたちの対談で、入鹿の御殿から豆腐を買いに行く女中とお三輪がばたりと会う場面が話題になった。
そのとき呂勢太夫さんが言われた「この時代に豆腐があったのかはわかりませんが」という言葉が気になった。


妹背山婦女庭訓は近松半二らがつくった浄瑠璃で1771年に初演。
蘇我入鹿らを登場人物に、飛鳥時代を舞台設定にしている。

はたして日本に豆腐が入ってきたのは……と調べてみた。世界大百科事典によれば、以下の通り。

日本の文献では,1183年(寿永2)の奈良春日大社の記録に見えるのが古く,鎌倉時代には1280年(弘安3)の日蓮の手紙に〈すり豆腐〉の名が見える。南北朝から室町期に入ると,豆腐の記事は日記類を中心にして急増し,室町後期の《七十一番職人歌合》には白い鉢巻をした女の豆腐売が描かれ,〈とうふ召せ,奈良よりのぼりて候〉と書かれている。歌のほうには奈良豆腐,宇治豆腐の名が見え,当時奈良や宇治が豆腐どころであったこと,この両地から京都にまで豆腐売が通っていたことがわかる。やがて大消費地であり,水のよい京都でも盛んにつくられるようになり,豆腐は京都名物の一つに数えられるようになった。

蘇我入鹿(645年没)の時代には、どうやら豆腐はまだ日本には入ってきてなかったらしい。

だが室町時代には女の豆腐売りが出現、近松半二の時代には人々の食生活にすっかり馴染んでいたことだろう。

近松半二は資料の少ない時代に、遠い飛鳥時代を思い描いた。
豆腐なら昔からあっただろう……と女官が豆腐を買いに行く場面を入れたのだろうか

日本国語大辞典で豆腐の例文を調べてみると、時代ごとに豆腐のイメージは微妙に現代とは違うのかもしれない……とも思う。

*本草色葉抄〔1284〕「腐豆(タウフ)」

*日葡辞書〔1603~04〕「Tofu (タウフ)〈訳〉豆を粉にして作った食物の一種で、出来たてのチーズに似たもの」

*俳諧・春の日〔1686〕「朝朗(あさぼらけ)豆腐を鳶にとられける〈昌圭〉 念仏さぶげに秋あはれ也〈李風〉」

日葡辞典をつくったポルトガル人にすれば、チーズに思えたのだろうか。
それにしても鳶にとられる豆腐とは、相当しっかりしている気がする。高野豆腐に近いものだったのだろうか。それとも油揚げなのか?

現代では、豆腐屋も、豆腐売りのラッパも遠くなってしまった。

これから先、豆腐はどう変わっていくのだろうか?
豆腐の移り変わりを思いながら、コンビニで売っていた豆腐プリンを深夜にひっそり食べる……。


さりはま の紹介

更新情報はツィッター sarihama_xx で。
カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Time limit is exhausted. Please reload the CAPTCHA.