丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読む—海を語ればー
惨劇のあと、船頭の大男と屋形船おはぐろとんぼは、「段切り灘」という海にでる。
おはぐろとんぼが感じる初めての海は、まず聴覚から描かれている。
次に海の音が作用する心の動きの変化を「どうでもよくなり」「溺れかけ」と語る。
次第に朦朧としてゆく意識の中、おはぐろとんぼは娘や野良犬の幻覚を語りだす。
海鳴りが心に及ぼす影響がつぶさに語られているから、読んでいる方にも海の音が聞こえ、おはぐろとんぼと同じく初めて海を見るような新鮮な体験を経験する。
……やがていつもと違う世界に囲まれている気がする。
果ては
水平線のはるか彼方から
スタジアムに詰めかけた大観衆のどよめきのごとき
とても低い周波数の海鳴りに圧迫され
その音にもならぬ心地よい音によって
真実から目を逸らさずに正邪の声を聞き分けることが
まったくもってどうでもよくなり
無邪気に推し進めたものの
いまだ実現されぬ
大分不鮮明な夢の潮流に巻きこまれて溺れかけ
肉の誘惑に負けた
引く手あまたの娘のように
みだりがわしさでいっぱいの
脱出不可能な逸楽に追いこまれ
虎斑の野良犬が放つ
不気味な殺気をよみがえらせ
地獄への順路を
まさに嫌というほど思い知らされ、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」593頁)