丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ーはっきりと分からないながら格好よく思える表現、よく分かるって文の場合あまり格好よくないのかもー
津波を生きのびた青年が、死せるおのれのドッペルゲンガーに出会い、自死するまでの記憶を思い出す。
以下引用部分は、義母の介護に耐えられなくなって殺害へとどんどん心が傾きはじめる場面。これでワンセンテンスである。
しょっぱなから「晦渋な言い回しによって互いに罰し合う存在と無のごとき」と、ほんとうに晦渋な、でも格好いい言い回しで始まっているのが心に残る。
烈風を「恐ろしげな連中の刃にかかるほうがまだましに思えるほど」と形容するのも面白い。
「民意の写しにほかならぬ劣悪な住環境」という言葉も、丸山先生の社会への痛烈なパンチが効いた表現だと思う。
「死に神が名誉をかけて取り持つ仲となり」は、青年が義母に殺意を抱いたということなのだろうか……こういう言い方もひたすら格好いいと思う。
絶望のどん底という状態も、「心に点る灯明の明確な輪郭を失ってしまった」と言えば、やるせ無さがひしひしと伝わってくる。
「まさしく地獄へ通じているにちがいない 繊細ながらも角張った開口部」という表現も、どんな感じなのだろうと存在しないものを見せようと仕向ける表現である。
最後「粗雑な判断の結果ということは言を俟たない 猛悪な情念の眼目が鮮明になったのだ」は漢字のインパクトが強い文で、これから不吉なことが起きる……と予言しているようである。
そして、
晦渋な言い回しによって互いに罰し合う存在と無のごとき
凄まじいその流れに沿って、
今の今まで社会の底辺のまたその底辺で怖れと怒りの入り混じった変遷を重ね
苔むしたい岩の下で一生を過ごす虫けらのようにひっそりと生き
将来への希望を託すものとはいっさい相容れない日々を送ってきた、
悲惨な限りの養母と
孤独な限りの養子は、
恐ろしげな連中の刃にかかるほうがまだましに思えるほどの烈風のせいで
温かく思いやりに満ちた中流階級など見たくても見られない
民意の写しにほかならぬ劣悪な住環境がさらに乱されることによって
老朽家屋群がほとんど半壊状態に陥った
その夜を境に
死に神が名誉をかけて取り持つ仲となり、
人間の面汚しどもが暗躍する悲惨な貧困の世帯の片隅で
過剰なしがらみにぐいぐいと締めつけられ
心に点る灯明の明確な輪郭を失ってしまった双方は、
殺す者と殺される者という
立場における本質的な違いに対して
一点の疑念も感じぬまま
みるみる低落から消滅へと急接近し、
それが証拠に、
まさしく地獄へ通じているにちがいない
繊細ながらも角張った開口部が
あたかも天国の門のごとき華やかさでもって楚然として識別され、
なかば闇の状況にあっても決着をつけてしまおうと
ともあれ腹をくくって
そこをくぐり抜けるや
とたんに
無自覚のまま気が立ち、
粗雑な判断の結果ということは言を俟たない
猛悪な情念の眼目が鮮明になったのだ。
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻232頁)