丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
➖怒れども文に美しさが残る理由➖
大津波で助かった青年が矛盾だらけの社会に見切りをつけ、一歩踏み出す場面。
丸山文学の魅力の一つは、ふだん不平不満に思っている社会への怒り、疑問を、丸山先生が見事に言葉にしてくれる点にもあると思う。
こんなに私の怒りを代弁してくれる書き手は余りいない気がする。
ただ「次の自民党総裁にふさわしいのは?という世論調査の一位が小泉進次郎、二位が石破茂、三位が河野太郎」という時代である。
以下、引用箇所を読んでも、まったく心に響かない人の方が多いのではないだろうか?
たぶん圧倒的に読む人が少ないだろう状況でも、ビシッと書いてくれる姿勢に感謝する。
それから、
途方途轍もない不平等な状況がもたらす
ただただ落胆するほかない徒労感でいっぱいの
たわいのない老衰した社会と、
前世紀に一大勢力を築き損ねた帝国の悪夢に未だ毒されている愚民たちの
あまりに強過ぎる民族感情こそが却って国家の価値を低めるという
常識中の常識を無視した
命取りにもなりかねぬ品性のいやらしさを持て余したあげくに、
自由の精神を窒息させる異様に肥大した非人間的な機構に愛想を尽かし、
特権階級の奉仕者たちときっぱり袂を分かち、
欲望を騒然とさせるしか能がない都市景観に見切りをつけ、
政治的幻想でいっぱいの不毛の領域に別れを告げ、
絶対者をあっさり容認してしまう大衆の理性に背をむけ、
文明と人種の運命を決定する痛ましい危機を予感し、
停滞期に入って久しい人知の全部門から身を離し、
寄る辺ない身の上を恐れるにはおよばないと決めつけた。
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻162頁)
ただ、こういう内容の文を私なんかが書くと主義スローガン調になって、散文の面白さが消えてしまいがちで難しい……と思う。
「我ら亡きあとに津波よ来たれ」で言いたいことは心に残るようにしっかり伝えられつつも、散文の美しさが残っている理由を考えてみる。
「途方途轍もない」と大袈裟に、漢字の圧力で不平等感を強調されている気が。
「たわいのない」と「老衰した」が「社会」にかかっているのも、どんぴしゃりと死にゆく社会のどうしようもなさを巧みに表現している感がある。
「絶対者をあっさり容認してしまう大衆の理性に背をむけ」という文も、「あっさり」という一語から、丸山先生の感じている歯痒さ、苛立ち、皮肉が伝わってくる気がする。
憤りを書く時であっても、こんな風に言葉と言葉を見えないところで複雑に結びつける冷静な視点が働いている。
それが読む者の心をグラグラ揺さぶるのではないだろうか?
それから、特にこういう文を書くとき、難じる分だけその人の心根が上から目線とか、はっきり見えて嫌になってしまうことがある。
丸山先生の場合、「痛ましい危機」の「痛ましい」に、「寄る辺ない身の上を恐れるにはおよばない」という文中の「寄る辺ない」に、寄り添おうとする気持ちを感じるから、しみじみと心打たれるのかもしれない。