丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
ー寄せては返す波のうねりのような文体を愉しむー
丸山先生はよく「散文は本当は詩歌に劣らず凄いものなんだ」と悔しそうに言われる。
下記の引用箇所に、私でもそんな散文の凄さを感じた。
読み手がチラ見で理解できるようにと思うなら、「命拾いをしたようだ」「だんだん穏やかになる波の音が聞こえてきた」とワンフレーズで書くかもしれないが。
丸山文学に慣れていない人のために引用箇所ごとに色分けしてみた。最初の紫の引用箇所は、平板に言うと「命拾いをしたようだ」と言う箇所である。
紫の引用部分を読むときの私の心を追いかけてみた。
「心の投影」でウーン、どんな心だろう……と考える。
「おぞましき獄門」でさらに考えはじめる。
ぼんやりした頭を「ぴしゃり」という言葉が襲いかかる。この「ぴしゃり」が効いているなあと思う。
やがて、
命へのひたむきさをもう一歩押し進めて
とうてい人知のおよぶところではない溌剌たる生気を急速に回復し
生者の不可逆的な時間の流れに乗れるところまでどうにか漕ぎつけ、
一種謎めいた物言わぬ動物にでもなった心地で
ふたたび現世の魅力に惹かれてゆくうちに、
詩美にいちじるしく欠ける
心の投影としての
おぞましき獄門が
ぴしゃりと閉じられた。
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻128頁)
以下、赤字の引用箇所は津波から助かった青年が、だんだん穏やかになる波音を認識する箇所だと思う。
丸山塾での指導されるとき、先生は同じ言葉の使用を嫌う……と言うより許してくれない。
語彙貧弱な私はすぐに言葉が出尽くしてポカンとすることもしょっちゅうだ。
そういうとき丸山先生は優しく、まるでドラえもんのポケットのように、「こんなふうに言うことができる」と惜しみなく秘密の言葉の武器の使い方を教えてくださる……。
そんな丸山先生の講義を思い出してしまった。
ここでは、まず波という言葉が手を変え品を変え、「音波」「音韻」「懐かしい声」と繰り返される。
次に「〜でなく」と否定する形で、「幸福の残骸の摩擦音」「過去のこだま」「絶望の叫び」「良心の叫び」ではない……と否定してみせる。
そして「笑い声」「百千鳥の合唱」「独言」「薄幸のため息」と比喩をパワーアップさせてゆく。
肯定の比喩、否定する形での比喩、さらにパワーアップした肯定の比喩……と文を展開させながら波を表現してゆく文体は波のうねりそのもののようだ……
と、ここの文体に心地よくなる理由を考えてみたが、どうだろうか?
さらには、
失地回復のための魂の自殺をうながす
霊妙なる楽の調べのような
度が過ぎるほど抗しがたい音波に魅了され、
純粋な個人を不断に干渉する音韻にじっと耳をかたむけているうちに
常に危険に身をさらして生きる動物的な精気から一挙に離脱するという
思ってもみなかった鎮静の効果が得られ、
ほどなくして、
心を許した血縁者がおれの名を呼ばわる
なんだか懐かしい声のように思え、
星を頂いた天空の処々方々に
万物は神の影などではないとする
そんな自己発揚の楚然たるきらめきが
無数に星散しているのであった。
だからといって、
過去に呑みこまれてゆくばかりの幸福の残骸の摩擦音というわけではなく、
幽界の人となった者が聞くという過去のこだまでもなく、
飽和点を超えた絶望の叫びでもなく、
ましてや俗耳に入り易い良心の呼び声などでもなく、
むしろそれとは真逆の、
野に遊ぶ小娘たちの切れ切れな慎ましい笑い声や、
常夏の国を想わせる風光のなかでくり広げられる百千鳥の合唱や、
行方定まらぬ二重の意識を持つ屈折者の独言や、
いかな悲しみであっても共有できそうな薄幸のため息……、
そういったものに近く、
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻129頁)
国語教育が実用的な文の理解に重点が置かれるようになった今、こういう文の愉しさを理解する人は非常に少なくなってきているのではないだろうか。
そんな現状を寂しく思う限りである。
それから「星散」(せいさん)という言葉、意味は日本国語大辞典によれば「星が大空にまいたように散らばっていること。転じて、あちこちに散らばること」……なんとも綺麗な日本語だと思った。