丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む
ー世に戦が近づくと眠りにつく巡りが原は、もう睡魔に襲われているのだろうかー
巡りが腹へとフラフラおぼつかない足取りでやってきた盲目の娘。
どうやら瞽女らしいと巡りが原は察する。
でも集団で行動する筈の瞽女がなぜ?と訝しむ。
瞽女の娘を観察する巡りが原の言葉から、娘の苦しい生活ぶりに寄せる温かい思いが感じられる。
また黒牛、逸れ鳥、巡りが原が瞽女の娘を歓迎して浮かれる様子はどこか微笑ましい。
破れた菅笠の下には使いこんだ手拭い
擦り切れた手拭いの下にはもつれた髪
緑の黒髪の下にはうっすらと汗ばんだ額
聡明そうな広い額の下には
つぶらな眼と
ちんまりとした鼻と
形のいいおちょぼ口と
円満な日々を象徴するかのごときふくよかな顎
円かな曲線で成り立つ顎の下には
ほっそりとしながらも
まんべんなくふくよかな肢体
全体としては素朴な造りの土雛を彷彿とさせる
そんな風貌の彼女の気持ちをなびかせようとして
まずは
黒牛が妙に上品ぶった声で鳴き
ついで
保護色とは正反対のいろどりの逸れ鳥が
情のこまやかさという点においては他をぬきん出ている
如才のない声でさえずる
それは図らずも和声を奏でることになり
うまの合う旋律となって三味線の音に同調する
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」348頁)
だが盲目の娘がトリカブトに顔を近づけた途端、巡りが原は娘が一人でここにやってきた目的を理解する。
こういう辛い状況にある人間に寄せる共感や理解も、丸山文学の魅力のひとつだと思う。
盲目の娘の訪問の目的
それは自死にほかならない
おのれの生を無理やり終了させ
みずからに死をさずけることが眼目だ
それ以外にはありえない
彼女の魂は重い障害を背負った肉体を避けたがっている
いや
すっぱりと縁を切りたがっている
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」355頁)
盲目の娘への共感がだんだん激してゆく巡りが原。
2014年の作品だが、後半の巡りが原の叫びは2023年現在の社会情勢とも被さってゆく。
さらに語っているのが高原だからこそ、読み手も反発することなく共感できるのだろう。
これが細かな人物設定とかしてある生身の人間だと、矛盾や破綻に気づいてしまい、ここまで共感はできない気がする。
おそらく
トリカブトはぬきがたい困難をきれいに消し去ってくれるだろう
そして
目もあやな安静へといざなってくれるだろう
なんなら私がいっしょに死んでやってもいい
「彼女のために死ぬのなら本望だ」
と
そう言わざるをえないほど正気を失くした私がここにいる
もっとありていに言えば
もはや私は
あまりにも冷酷な摂理の支配に身をゆだねるしかないこの世に飽き飽きしており
思弁的観念などまったく役に立たぬ過酷な現実社会と
結局は戦争と平和のくり返しでしかない人間界と
悪行のみが報われるという憂き世に
とことんうんざりしているのだ
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」365頁)
深刻な胸の内の吐露を聞きつつ、思わず次の言葉に笑んでしまう。
困難な状況が語られているけれど、語り手が「巡りが原」という高原だからこそ生まれる微笑み、ゆとりのようなものも感じる。
だが
自殺の方法がわからない
果たして私はどうすれば死ねるのだろうか
なにせ数千株数万株にもおよぶトリカブトをやどしていながら命を長らえさせているくらいなのだから
尋常一様なことでは死ねないだろう
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」368頁)