丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む
ー戦争の愚かさを思ったり、太陽の面白さを思ったり……視点が聖俗を彷徨うー
最近、この日誌にその日読んだ後期丸山文学について書いていることが多い。
後期丸山文学は、文体が散文詩のように変化、脱ストーリー性を志向している。
それまでの丸山文学ファンも「ついていけない」と離れていったようだ。
それなのに、私の拙い文で書いた日誌を読んでコメントくださるお若い方がいらっしゃる……ただ、ただ感謝あるのみ。
後期丸山文学の魅力は文体の面白さもさりながら、戦争へとむかってゆく人間の愚かしさを描く目が一段と冷静に、冴え渡っている点にあると思う。
同時にそんな嘆かわしい生き物である人間が存在する自然の美しさ、宇宙の大きさに思いを寄せずにはいられない視点が、神のごとき高さに思えてくる。
愚かしいもの、壮大で美しいものがシンフォニーのように響き合いながら詩のような文体で語られている……ところも魅力のように思う。
それにしても人間の愚かしさに向ける厳しい視線に、昨今の状況が重なり「やはり人間はダメだんだろうか」とも思う。
以下引用部分は、そんな人間の愚昧さを語る「巡りが原」の言葉。
だが
人は常に思慮深い人生から離れたがり
理性に反する行いに魅せられ
邪心によって変調をきたす精神をよしとし
ために
のべつそっちへむけて自身を焚きつけ
鮫のように敏感に血の臭いを嗅ぎつけ
知らぬ間に
ご法度の最たるものである殺戮を堂々と世界のすみずみまでゆきわたらせてしまっている
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻311頁)
「トリカブトの花が咲く頃」の文に、本の外の世界の状況に、このままだと人間は滅んでしまうのではないだろうか……とも思いかける。
そのとき、以下引用文のように「巡りが原」が太陽の愉悦を語る。
思わず読み手も太陽に、他の恒星に、大きな存在に目を向けたくなる文である。
地球上の人間がダメになって消え飛んだとしても、この宇宙のどこかにその愚かしさを見ている超越した存在があるのかも……と思えてきて、静かな心になってくる。
あまりにも真っ正直に高く昇り過ぎたことで
結果として天空に身を売りわたすかたちとなった太陽は
残念なことに
詩的緊張にみちた躍動の気配からいささか遠のき
自信たっぷりの意見表明を得意とする
ともすると激情に流されやすい
自己自身の本姿からも大分離れてしまう
とはいえ
われらが太陽はそのことを少しも苦にせず
宇宙にごまんと在る
ありふれた恒星としての地位を平静に保ち
のべつ生存の崩壊の危機に見舞われつづけている人間への
くどいほどの心情的な関与を極力避け
核融合による究極の燃焼の持続という
至上の快楽にひたすら熱中し
感銘深い真昼の輝かしい時間帯に
なんとか静止しようと努めている
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻318頁)