丸山健二「千日の瑠璃 終結2」一月二十五日を読む
ー散文ならではの魅力、詩歌と変わらなぬ魅力ー
一月二十五日は「私は氷原だ」と、「俘虜としてシベリアの厳冬を体験した男が 全面結氷したうたかた湖から激しく追走する めくるめく氷原」が語る。
以下引用文は、そんな元俘虜の男の目がとらえた現代社会だ。
この文を写しているうちに、散文の良さを教えてくれる文のような気がしてきた。
「跡目を継ぐことになった」という微妙な表現に、こうした制度への疑念やらが感じられてくる。
「隙あらば」「少しでもいい思いをしよう」という言葉から、現代社会を抜け目なく渡ってゆく黒い輩の姿が浮かんでくる。
「無知」「動物的な習性」という言い方に悲しき私たちの在り方を思う。
不可思議な制度を、ずる賢い連中たちを、哀れなる私たち自身を、まさに無駄のない的確な言葉の三連発でずばりと語った後にくるのは、「〈蟻の思想〉の扶植」である。
「〈蟻の思想〉の扶植」というよくは分からないながら、イメージをモコモコ自由に喚起させる不思議な語句が待ち受けている。無駄のない表現の後だから、この不可思議な言葉の結びつきが心に迫って、「自由にイメージせよ」と呼びかけてくる。
こうした構成に散文ならではの魅力を思う。
またストーリーから離れて、読み手に発想を自由に委ねてくれる……そんな詩歌と変わらない魅力が本来なら散文、小説にはあるのだなあと思う。
跡目を継ぐことになった次の天皇を
隙あらば象徴以上の地位に返り咲かせて
少しでもいい思いをしようと企む輩は、
国民の無知と強い者には訳もなく従うという動物的な習性に付け入って
またしても〈蟻の思想〉の扶植に熱を入れ始めていた。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」67ページ)