さりはま書房徒然日誌2023年10月28日(土)

丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む

ーすぐ眠くなる「高原」が語るからこそ頷きたくなる過激な言葉ー

人の世に戦争が近づくと、意識朦朧となってクタッと眠ってしまう……そんな少し情けない高原「巡りが原」が語り手である。
だから戦争の愚かしい歴史や人類の今後について悲観的な見通しを語られても、「そうだよね」と思わず頷きたくなる。
これが人の形をしたもの、「木樵のお爺さん」とか「校長先生」や「天狗」とかだったらうるさく感じてしまうだろう。
すぐに眠たくなる高原・巡りが原が語るから、思わず納得するのである……という幻想文学らしい世界が、純文学読みには分かってないのかも……という感想を見かける気がする。

以下の引用箇所は、多分、先の大戦について巡りが原が語っている。あの戦争を語れば、まさにこういうことだった……と納得したり、発見させてくれたり、「私もこう言いたかった」と拍手したくなった箇所だ。
あと読点が一箇所だけあった。なくても大丈夫な気もする箇所だが、何か意図があるのだろうか?

はてさて
今回の終戦によって
果たしてどんな時代の入り口に立つことができたのだろう


前景へと踏み出せる勝ち戦だったのか


それとも、
後景へと退くしかない負け戦だったのか


現人神とやらの俗悪陳腐で悪趣味な偶像を
恥ずかしげもなく狭量な精神の軸に据え

本来同等の権利を持つはずの人間的尊厳を毛ほども尊重せず

国益の幅をまずます狭く限定し

地震列島の上を漂う
折衷案のない
押しつけがましい理念は
より徹底され
国民に窮乏生活を強いて軍事力を異様に肥大させ

戦争はもっと筋の通った合目的が必要だと唱える少数者を
拷問と処刑によって封じこめ
益なく血を流すことをなんとも思わぬ
破滅的な覇権主義に凝り固まり

とうとう狂気そのものの顔立ちになった帝国は
時代を衝動的欲求とも言える開戦へとひきずりこみ
有無を言わせぬ生き甲斐として戦死を強引に押しつけ
実際には人間の尺度に合わぬ戦争の極限に行き着いたのだ


そして恐ろしい神の仮面をつけた天皇の威信に惑わされ
弱い立場を宿命づけられ
一丸となって事大主義の虜となった魂の持ち主たる国民は

人格崩壊に突き落とされ
冷静な現実から切り離され
とてつもなく堅苦しい社会性を強いられ

その窮屈さから生じる
集団的にして感染的な怒りにかられ

白人の魔手をはね返すためのアジアの統一という
一理はある口実で捏造された欺瞞の理想をあたまから信じこみ

あまりに無謀な目的に囲いこまれたあげくに
みずからを拘束し

慈悲の心を完全にうしない
他国の人間を人間として認めぬ
大量殺戮を追う視線の果てに
いったい何を見たのだろう

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻35頁)

以下、戦争について、平和について、その間の歴史について語れば、確かにこうなのかもしれない……と内容と表現の格好良さに心惹かれた。

直感という名の羅針盤が
戦争と個人的な殺人についての終わりなき論争における
差異と類似のあいだでいまだに迷いつづけ
常に気まぐれで無責任なかたちで訪れる
平和の始点と終点のあいだをひっきりなしに行き来している

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻41頁

以下の引用箇所、やはり語り手が巡りが原という高原だから成立する言葉。人間が語り手だと、この思いはそっぽを向かれてしまうと思った。

死んだのは人間どもであって
山河ではない

より劣った生き物の特性として
自己疎外の葛藤を抱えこんだ人類の歴史は

空洞のごとき生から逃れんとして墓穴を掘り
みずからかくも残酷なきびしい裁きを下しつつ
陰々滅々とつづく

しかし

よしんば人間界に絶滅の戦争の嵐が吹き荒れることがあったとしても
究極の最終兵器によって人類が激越な最後の時代をむかえたとしても

(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻56頁)

人間よりも大きな存在でありながら、巡りが原という少し頼りない高原が語っている……というところに面白さがあるのに、この面白さが感じられない人が多いのは残念なことだ。

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