丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻を少し読む
ー人間でない「高原」が語り手になる面白さー
ー句読点がないのがこんなにスッキリ見えるとは!ー
私はごく最近丸山文学を読みはじめた。
それも余り人が読まない後期の作品から読みはじめた。
時の流れを遡るようにして、少しずつ丸山文学を遡ってゆくという天邪鬼的読み方だ。
最近では左右社から出ている三作品「おはぐろとんぼ夜話」「我ら亡きあとに津波よ来たれ」「夢の夜から口笛の朝まで」と幻想味あふれる作品を楽しんだ。
今回、もう一つ前の作品「トリカブトの花が咲く頃」を読むことにした。「トリカブトの花が咲く頃」も、後期の作品の特徴である斜めの形に文を揃える詩のようなスタイルである。
さらに「トリカブトの花が咲く頃」には句読点がない。
だが意味はとりやすいし、視覚的にも句読点がないのはスッキリする……というのが不思議な発見だった。
ざあっと見てみると、感嘆符は見かける。
なぜ、この後の作品では句読点が復活したのだろうか?
どうやら「トリカブトの花咲く頃」の語り手は「巡りが原」と呼ばれている高原らしい。
高原が語り手となってストーリーが進行する……とは、それだけで幻想文学読みの心を刺激するのではないだろうか……。
巡りが原が語る自分の姿。
客観的に語りながら、じつに生命の躍動感あふれる文だと思う。
動物で言うところの血管
植物で言うところの導管に匹敵する
わが体内を縦横無尽につらぬく水脈や
体外を好き勝手に走る細流の絶え間ない運動が
じつに生々しく自覚され
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻11頁)
巡りが原の真ん中に一本だけ生えているシラビソも、良識のシンボルなのだろうか?これも幻想的である。
さらに風が発する多様な言葉の面白さも、幻想文学読みを惹きつける気がする。
それまではたんなる草の海にすぎなかった私の真ん中に
一本だけ生えてきたシラビソの成長とともに
なんと
良識の徒を自負できるまでに育ち
私の意思の表れとしてさまざまな種類の嵐が発する
乾いた言葉や
偽りなき言葉や
辛辣な言葉や
空疎な言葉により
戦争と平和という
常に急を要し
幸福の根幹にかかわる課題について激論が交わされ
正義の尺度に波紋が投げかけられるようになり
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」上巻28頁)
この不思議な巡りが原は、戦争が始まると眠りにつくらしい……。
巡りが原が戦いの気配を察知して、いつの間にか眠りにつく描写に、丸山先生の世界が始まる予感がする。