藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」を読む
短歌とは「五七五七七」としか知らず、福島先生の短歌創作講座を受講したのが今年四月。
たしか福島先生はこう言われた。
「短歌という詩型の歌う主体は、宿命的にこの<私>である。この一人称詩型短歌の<私>を逆手にとり、「不特定多数の<私>」に降り立つことができる」
そんなことができるのか!……と、この言葉が強烈に印象に残った。
「不特定多数の私の視点におりたつ」という考えで歌をつくると、文楽人形の気持ちになったり、関東大震災で自警団に惨殺された青年の視点になったり……自由自在に万物になった気分で、とりあえず楽しく歌もどきを詠むことができた。
藤原氏は、「不特定多数の視点におり立つ」という福島先生の短歌を三人称短歌として語られている。
福島泰樹の短歌の世界でのポジションが微妙に変化をみせ始めるのは、次の歌集『中也断唱』(1983年、思潮社)以降である。つまりこの時期から福島泰樹は活字メディアのみの現行為にはあきたらず、ライヴ即ち短歌絶叫という新たなジャンルの創造に挑み始めたからだろう。
これは同時に、ある特定の存在に成り変わって詠うという三人称短歌の実現の過程でもあった。
(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」109頁)
藤原龍一郎氏は、この文の次に福島先生のこの三首を紹介している。
哀切な響きと地名が心に残る歌である。
ゆくのだよかなしい旅をするのだよ大正も末三月の事
さなり十年、そして十年ゆやゆよん咽喉(のみど)のほかに鳴るものも無き
中也死に京都寺町今出川 スペイン式の窓に風吹く
(福島泰樹)
福島先生は毎月一回10日に短歌絶叫コンサートを開催されている。
絶叫とは何か……について、福島先生はこう語られているそうだ。
「だから、なぜ叫ぶかというと、それは自分だけの叫びじゃない。彼らの無念をおれが体現しているんだ。おれの体で肉体で受け止めて、それぞれの時代の無念、死んでいった彼らの無念をおれが歌うんだ、そういう思いが絶叫だね。それが絶叫コンサートの意義というかな。」
(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」111頁福島先生の言葉)
そして藤原龍一郎氏によれば、「彼らの無念」の「彼ら」とは以下であるそうだ。
彼らとは、中也に限らず、寺山修司や岸上大作や村山槐多や沖田総司といった志なかばで斃れていった者たちのことだ。
(藤原龍一郎「叙情が目にしみる 現代短歌の危機」より「短歌表現者の誇り 福島泰樹の現在」112頁)
短歌絶叫コンサートは毎月行っても、その度に聞こえてくる響きが違って飽きることがない。
福島先生の鎮魂の思い、無念の思いを抱く者たち……その都度、両者が異なる叫びを発しているのかもしれない。
そして何度読んでも、聴いても飽きない……というところが、詩歌の魅力だろうか。