さりはま書房徒然日誌2023年9月28日(木)

丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻読了

ーひとつの文の中に、ひとつの物語が内包されているようでもありー

津波を生きのびた青年。無人の被災地をさすらううちに、自分の家でおのれのドッペルゲンガーの死体を見つける。その死体を土に埋めるも……。

引用箇所はこれで一つの文。実に長い一つの文である。

長い文の中に読者の心を掴む導入、スイッチオンにする箇所、ドッペルゲンガー再来を予告するような箇所、だんだんやわに崩れようとする心が語られる。

一つの文の中に、一つのストーリーが内包されている。

長い文が始まる冒頭部分は、「朝の歓喜」とか「匂い立つ歓喜」という心を思わず引き寄せる言葉が並んでいる。
だから長い文も気にすることなくスッと入っていける。

次の「翼をいっぱいに広げた怪鳥」「いにしえのい日々」で、この長い文が語ろうとする世界へと、グッと心のスイッチが入る。

さらに「愛と憎悪の幻影」「無二の大舞台」と、このあとにまた復活するドッペルゲンガーを予告するような言葉が並んでいる。

だが「けだし」のあとに並べられている言葉は、凡庸な生き方へ堕ちてしまおうか……という自棄への誘惑である。

そういう言葉すらも「魂の方位盤が示す四方」「夢がふたたび若返る」「国家権力がもたらす害毒の呪縛」と魅力的な言葉が並び、いかにも丸山先生らしい考えが表れている。

世俗的考えに流されそうになったところで、このあと地中に埋めたはずのドッペルゲンガーが泥まみれの裸でマストの上に現れる。

丸山文学によく出てくるドッペルゲンガー……それは喝を入れるような存在なのだろうか?

すると、

夏のあいだずっと保たれそうな朝の活力を彷彿とさせる
匂い立つ歓喜が辺り一帯に放散されるなかで、

目もあやな空を背に巨大で頑丈な翼をいっぱいに広げた怪鳥にさらわれ
言葉を失うほど遠いいにしえの日々へと連れ去られ
世界観を曇らせる偏見のあれこれがことごとく払拭されたかのような
そんなさっぱりした心地になり、

しかも、

暗黒物質のさらなる増大によって天と地が分かたれるという
めくるめく偉大な物語の登場人物の一員であることが生々しく自覚され、

じつは、

始まりも終わりもないこの宇宙こそが
多大の犠牲を払いつづけるという苦い経験を通して
自身の胸から芽吹いた愛と憎悪の幻影を存分に楽しめる
唯一にして無二の大舞台ではないか、


さもなければ、

偏向なき自由意思によって
嬉々として破滅へ堕ちてゆくことが可能な
ほかのどこにも存在しえない天国ではないかと
そう思えてきて、


けだし、

ありとあらゆる悲劇や不幸のたぐいをいっさい含めて楽しむべきではないか、

人生の苦杯を舐めつづけるおのれを語ることになんの意味もないのではないか、

魂の方位盤が示す四方に沿って精神が純化されるという説は嘘ではないか、

精神生活が無為のうちに尽きてゆくことを恐れなくてもいいのではないか、

常に変わらぬ孤独に愛着をおぼえるのはあまりに危険ではないか、

遂げられなかった夢がふたたび若返ることなどないのではないか、

知性に依存する立場に正当な論拠を与えることは不可能ではないか、

面目躍如たるものがある反逆的行為など幻にすぎないのではないか、

国家権力がもたらす害毒の呪縛を脱することなど無理ではないか、

という
そんな結論にもならない結論が
速乾性の接着剤のように急激に固まりつつあった。

(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻553頁)

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