ー酒を語る文がかくも違うとは!「千日の瑠璃 終結」「風死す」の酒が出てくる場面を比べるー
最近、丸山先生がNOTEに書かれているエッセー「言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から」を楽しく拝見している。
エッセーの文体、「千日の瑠璃 終結」の文体、「風死す」の文体……それぞれが違っていて、それぞれ別の良さがある。
丸山先生の色んな部分を見る思いがするし、一人でこれだけ文体を書き分けるとは!と驚く。
さて「酒」を題材にしても、まったく語り方が異なるもの……と思った箇所を「千日の瑠璃 終結」と「風死す」から見てみたい。
丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む
ー場末感ー
以下引用文。「臓物のごとく入り組んだ袋小路」「焼酎」「売れ残りの干物」と場末感がたっぷりである。
私は酒場だ、
臓物のごとく入り組んだ袋小路の一角にあって
酒は焼酎
肴は売れ残りの干物しか出さない
田舎暮らしを侘びる連中のための酒場だ。
(丸山健二「千日の瑠璃」138頁)
以下引用文。そんな場末にやってくる者たちらしい描写である。
全ての文が「者」で終わって、普通なら重苦しさを感じる筈なのに重圧感がなく、かえってリズムが生まれている気がする。
なぜなのだろうか?分からない。
「者」の前にくる言葉がすべて音を発する言葉だから、重苦しい気が発散されたまま「者」という言葉に収束されるのだろうか?
最初が「怒鳴り散らす者」で、最後が「床にぶっ倒れてしまう者」とド派手な点も、重苦しさを消し去っているのかもしれない。
にこやかな笑みを突然消し去って怒鳴り散らす者
唯一の得がたい体験を幾度となく語る者
意気消沈の臭い芝居を延々とつづける者
放心状態で後悔と怨念の歌をくり返し口ずさむ者
髀肉の嘆を託つうちに床にぶっ倒れてしまう者、
(丸山健二「千日の瑠璃」138頁)
丸山健二「風死す」1巻を少し再読する
ー踊り子たちの動きが見えてくる!ー
同じように酒を飲むなら、こういう体験をする方がいいなと思った。
延々と続く長い文が、酔眼をとおして眺める「踊り子たち」の舞い、揃いの着物、華やかな集団を表現している気がした。
春の月夜に酩酊して浮かれ歩こうと思い 暖かいそよ風が吹く河畔に沿った直後に
満開の桜の下で差す手引く手も鮮やかに舞う 揃いの着物を纏う踊り子たちの
それ以上望むべくもないほど華やかな集団と ばったり出会ったところで
なぜかは知らぬが しこたま飲んだ酒の効き目はまったく認められず
(丸山健二「風死す」1巻534頁)