丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む
ーそれぞれの鯉が意味しているものー
十一月二十九日は「私は池だ」で始まる。
以下引用文。池は自分のことをこう語る。「滲みや斑のない錦鯉」はまるで世間並みの人生を歩んできた人々のようであり、「緋鯉の彫り物を背負った男」(世一の叔父)とは対照的に思えてくる。
どこにも滲みや斑のない色彩と
見応えのある模様に覆われた錦鯉を抱えこみ、
緋鯉の彫り物を背負った男を
くっきりと水面に映している
山中の池だ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」238ページ)
以下引用文。池のほとりで急に服を脱いだ男。その背中に彫られた巨大な緋鯉が、「ほとんど血の色に染まるや」という箇所に、男のこれまでの人生が重なって浮かんでくる文である。
餌に期待して浮上していた錦鯉の群れが「いっせいに怯えてさっと散り その日は二度と姿を見せず」という箇所は、まるで大衆の行動を見るようである。「底へと降りていった」という錦鯉の動きにも、希望から縁遠い大衆の姿を見るような気がする。
その背中を私の方へ向け、
滝を登る巨大な緋鯉が夕日に映えて
ほとんど血の色に染まるや
餌に期待して浮上していた錦鯉の群れが
いっせいに怯えてさっと散り
その日は二度と姿を見せず、
夜が更けるにつれて
底へと降りて行った。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」241ページ)