丸山健二「千日の瑠璃 終結」を少し読む
ー世一の目に映る世界とは?ー
十一月三十日は「私は消火栓だ」で始まる。
「古過ぎる消火栓」の側を通り過ぎてゆく様々な生ー酔っ払いたち、「放し飼いにされている犬ども」、「野育ちの典型である少年世一」、腰が曲がった認知症の老婆ーがユーモラスに描かれている。
こうした消火栓が見つめる生の模様も、文字による表現だから面白みがあるのだろう。
映像の場合、消火栓にここまで観察させて語らせることは出来ないのではないだろうか?
以下引用文。認知症の老婆と不自由なところのある少年・世一のやりとりが不思議と心に残る。
中でも「これは自分なのだ」と、「相変わらずちっとも目立ってくれず 甚だもって情けない立場に置かれた 古過ぎる消火栓」のことを語る世一の目は、どう世界を捉えているのだろう……と考え、心に残った。
さかんに私を撫で回す世一に向かって
「おまえはこの子の友だちかい?」と尋ね、
すると彼は
全身に震えをもたらしている
負のエネルギーを唇に集中し、
途切れ途切れではあっても
友だちなどではない旨を
きっぱりと告げ、
その直後に
これは自分なのだと
そう付け加えた。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結」244頁)