丸山健二「風死す」1巻を少し再読する
ー今日の状況を語るような文ー
まさに今日、私たちが置かれている状況を語るような文が心に残る。
二番目の「遠い遠い」と重ねることで、実現不可能な未来への悲しみが強く伝わってくる気がする。
「平和」が「非現実の典型となって眼前に横たわり」という抽象的な主語が具体的な動作をとる形の文……なぜかダリの絵が浮かんできた。
人類においては至上至高の情熱の発露であるやも知れぬ 宿命的な戦争行為がもたらす
破滅に直結して破局の一端を担う 現世の恐ろしさに気づいてもどうしようもなく
永遠の安寧を吹きこんでくれ 晴朗の心地が遠い遠い未来までつづくはずの平和が
透徹した理解など断じて得られない 非現実の典型と相なって眼前に横たわり
(丸山健二「風死す」1巻450頁)
丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む
ーどこかユーモアのある表現ー
十月二十日「私は写真だ」と、まほろ町町役場を飾る六十年前の航空写真が語る。その口調は、田舎の社会にかなりうんざりしている。航空写真も、不自由な少年世一の不思議さに気がつく。
うたかた湖の北の外れに
ぽつんと点のように映っている淡い影が
鳥の形に似た人間の屍であるなどと
そう言って少年が騒ぎ立て
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」81頁)
十月二十一日「私はボートだ」とおんぼろボートが語る。世一を憐れんだボートは、一緒に湖底に沈もうとするが……。
「遠慮がちに差し出す死の優待券」という表現に、なんとも言えないユーモアがある……英語圏の小説なら、こういう表現はある気がするが、日本の小説では珍しいのではないだろうか?
私が遠慮がちに差し出す「死の優待券」には目もくれず
不自由な体ながらも元気いっぱい生の道を歩みつづけていた。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」85頁)