変わる言葉の風景ー喫茶店ー
時は経過すれど「ル・プティ・ニ」という空間は変わらず
もう35年以上前になるが、地下鉄早稲田駅を出てすぐの建物の2階に「ル・プティ・ニ」(フランス語で「小さな巣」の意味)という喫茶店があった。
昼でも薄暗い照明が心地よく、木の梁を見せるような内装、アンティーク調の家具、香りのいいコーヒー……。
学生には少し高い値段だったので、そうしょっちゅうは行けなかったけれど、私が喫茶店文化に触れた最初の店だ。
そんなル・プティ・ニも、社会人になってしばらくしてから早稲田の街を訪れてみれば、影も形もなく……。
駅の界隈から懐かしい蕎麦屋も、喫茶店も消えて、チェーンのコーヒー店とコンビニばかりが目立つ寂しい街になっていた。
それでも早稲田の街を訪れるたびに、ル・プティ・ニで過ごした友達との語らいのひとときがふと浮かんでくる。
その度に「あのときはどこに消えてしまったのだろうか……?」と思わずひっそり問いかけていた……。
さて今回、長野の方に用事があってきた。
途中どこかでコーヒーでも飲んで休憩しようと検索してみたら、「ル・プティ・ニ3」という店名の店が軽井沢にあるではないか。
同じ名前だ、ひょっとして……と物好きにも足を運べば、やはり同じ店だった。
早稲田に開店してから今年で45年め、早稲田のあとは目白、目白から軽井沢と、店の場所を変えつつ、続けられていたらしい。
店内の照明も、家具も早稲田のまま。
流れている音楽もあのときと同じ。
使われているコーヒーカップも見覚えがある……。
訊けば、カップは代えつつも同じメーカーの同じ柄のものを使われているそうだ。
コーヒーは、軽井沢に来てから自分で焙煎までするようになった……とのことで、更に美味しく、値段は多分早稲田の頃よりは安くなっていた。
大切な空間の光、音、香りが35年経過しても変わらず……学生を見守っていてくれたマスターたちは優しく軽井沢で迎えてくれ……変わらない空間があることに嬉しくなった。
(写真はル・プティ・ニ3の店内)
世界大百科事典で「喫茶店」の項目を調べてみる。
以下に英国の喫茶店、イスラム社会の喫茶店マクハー、日本の喫茶店について書かれている箇所を抜粋引用する。
それぞれ国ごとに喫茶店のミッションというか歴史が違うのだなと思った。
パリやロンドンの誰かが読み上げる新聞を聞く場としての喫茶店、
イスラム社会の若手作家が読者たちと語り合わす場としての喫茶店も魅力がある。
そして静かに軽井沢で時を刻むル・プティ・ニも……。
「喫茶店」についてー世界大百科事典より、英国、イスラム社会、日本の場合
イギリスの場合は,コーヒーと同時期にもたらされた紅茶,チョコレートなどのエキゾティックな飲料をも供した。しかし,喫茶店の歴史的意義は,それが文化面のみならず,政治や経済の面でも,情報交換と世論形成の場となった点にある。イギリスでは,新聞をはじめ初期のジャーナリズム,文芸批評,証券・商品取引などはほとんどコーヒー・ハウスを舞台として成立した。パリでもロンドンでも,初期の新聞は喫茶店でだれかが読みあげるのを〈聞く〉ものであったし,南海泡沫事件(1720)に至る異常な株式ブームの舞台もコーヒー・ハウスであった。世界の海運情報を独占し,大英帝国を支えたロイズ海上保険会社もコーヒー・ハウスから出発した。喫茶店はまた,反体制派のたまり場となることが多かったので,17,18世紀にはイギリスでもフランスでも,営業時間や内部での談論内容の規制が試みられた。しかし,イギリスの〈コーヒー・ハウス禁止令〉(1675)が11日で撤回されたように,規制は成功しなかった。 自由な雰囲気をもったイギリスのコーヒー・ハウスは18世紀中ごろから急に衰え,上流階級のクラブと都市下層民のパブにとって代わられてゆく。それは,コーヒーに代わって紅茶が国民的飲料となったうえ,紅茶が家庭内で飲まれるようになったこと,また大地主による支配体制が確立して社会の階層秩序が固定化したためである。コーヒー・ハウスとは異なり,クラブやパブは酒類を供し,各階層の表象となる。パリのカフェが芝居や音楽会と結びついて発展したのに対し,すでに19世紀のロンドンではコーヒー・ハウスはほとんどみられなくなる。
イスラム社会の場合
酒が厳しく禁じられているイスラム世界にあっては,マクハーこそが庶民のくつろぎの場であり,またマクハーには庶民の生活のたくましい鼓動が脈打っている。マクハーは娯楽の場であると同時に,社会生活に深く根ざしたものであり,アフガーニーやムハンマド・アブドゥフなど,近代のイスラムの改革思想家たちもカイロ下町のアタバ広場のマクハーに夜ごとに座り,エジプトの歴史を決する政治談義が繰り広げられた。またマクハーは文化を支える役割も果たしてきたが,その伝統は今でも残っており,たとえばエジプト文壇の第一人者,ナギーブ・マフフーズは金曜日の夜,カイロのリーシェというマクハーに必ず現れ,若手作家や読者たちと文学論を交わす風景が見られるが,そのような例はほかにも多い。
日本の場合
ヨーロッパの清涼飲料を飲ませる店であるソーダファウンテン,パリのコーヒーを飲ませる店のカフェをまねたのが,日本での喫茶店のはじまりであった。1888年(明治21)東京下谷黒門町にカフェをまねた〈可否茶館〉が開店したが,これは時期が早すぎて客の入りが少なく,すぐに閉店した。1911年東京銀座南鍋町に開店したカフェ・パウリスタをはじめとして,明治の末に東京や大阪の盛場にコーヒー等を飲ませる店としてカフエができた。日本の工業化を背景として,モダンな気分がするカフエは商売として成り立ち定着した。しかし,パリのカフェレストランをまねて,酒類や西洋料理を提供し,ウェートレスを客の横にはべらせてサービスをさせる店ができて,それはカフェーと称するようになった。昭和初期に音質,音量ともにすぐれた電気録音のレコードと電気蓄音器ができたので,それを使ってクラシック音楽を聞かせ,コーヒー等を飲ませる店として,まず名曲喫茶と称する喫茶店ができた。ミルクホールより高価にコーヒー等を売り,町娘風のウェートレスが持運びをしたので,カフェーよりも清楚で安価でモダンな感じがする喫茶店は知的な若者たちに支持された。つづいて軽音楽を聞かせる喫茶店ができてカフェーの客をうばった。それで,場末のカフェーなどのうち,歌謡曲や浪花節のレコードを聞かせて社交喫茶などと称する店ができた。江戸時代の水茶屋の現代化が喫茶店だとそのころはいわれた。