丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む
屋形船おはぐろとんぼは徒然川を下ってゆくうちに、里山の露草村を離れ、都心部へと近づく。
だんだん見えてくる人間の在り方も寂しいものに変わっていって、都会に暮らすことへの丸山先生の嫌悪を感じる。
嫌悪しつつも都会の蝕まれてゆく雰囲気を美しく描いているなあと思う。
嫌な存在を、思わず読んでしまう書き方で表現されているところに散文の面白さを感じる。
生まれてこの方
推挙など誰からも受けたことがない
週日のようにつまらぬ個々の人々の
間尺に合わない一生が浮き彫りになり、
そんなかれらが次々に没してゆくしかない
朽ち葉色の沈黙の世界が
胸にじんとくる追憶を
ことごとく破壊し尽くし、
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」中巻453、454頁)
堀田季何「俳句ミーツ短歌」&「惑亂」でようやく枕言葉の面白さがわかった!
長い間、私にとって枕言葉とはただ一方的に教師から説明されるだけの存在で、昔の人はなぜこの言葉とこの言葉を結びつけたのだろう……どこが面白かったのだろう……と心の中で疑問に思いながら、「古典の公式だもの、仕方ない」的な感覚で受け入れていた。
堀田季何「俳句ミーツ短歌」は色々面白い視点に溢れているのだが、「第四章 歌語ネバー・ダイズ短歌、俳句の語彙」の中の「枕言葉は五文字の盛り上げ役」の箇所を読み、枕詞への明快で理論的な説明で、長い間の疑問がすっと溶けていった……気がする。以下、少し長くなるが青字は同書より引用部分。
明確な意味は持たない枕詞ですが、枕詞があると修飾される言葉が際立ち、音の流れも美しくなります。そのため枕詞は生き残ったのでしょう。(途中省略)
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ 紀友則
(光のおだやかな春の日に桜の花はなぜあわただしく散るのだろう)
ここでは「ひさかたの」は「光」と「日」にかかって、ムードメーカー的な役割を果たしています。すなわち「ひ」のやわらかな音の連続が、春風駘蕩とした雰囲気をつくりだしているのです。しかし、「しづごころなく」と咎めるような言葉が、聞く人、読む人を少し驚かせます。そこに「花の散るらむ」と続き、やわらかに落ち着きます。
(青字は堀田季何「俳句ミーツ短歌 第四章 歌語ネバー・ダイズ短歌、俳句の語彙より」
枕詞について分かりやすく説明してくれた筆者・堀田季何の歌集「惑亂」も少しづつ読んでいるが、使われている枕詞が全然古びていない気がする。古くから使われている枕詞が現代の不気味さを伝える言葉に生まれ変わっているように思う。以下、堀田季何の歌集「惑亂」より。
ぬばたまの黒醋(ず)醋豚を切り分けて闇さらに濃く一家團欒 (堀田季何)
「ぬばたま」って独特の強烈な響きがある……ナ行のせいだろうか。ナ行の強さと「切り分け」という言葉の強さにやりきれなくなったところにくる言葉が「闇」だ。「一家團欒」と旧字が使われているせいで、昔からの家族を大事にする価値観にやり切れなさを感じてしまう。
ぬばたまの醤油からめてかつ喰らふセシウム検査證なき卵 (堀田季何)
ここでも私が「ぬばたま」から感じるのは不安である。その不安が「からめてかつ喰らふ」という慌ただしい動作で増幅され、さらに「セシウム検査證なき卵」で不安が確定される。ここで「セシウム検査證」と旧字体になっていることにより、時代が曖昧になって大昔あるいは未来のことを語っているようなSFチックな気分にもなる。
……などと勝手に書いてしまったが、この歌の私の解釈は違うのかもしれない。でも古くからの枕詞を現代に甦らせようと作者は試みているのだと思うし、その試みが楽しみである。
それにしても枕詞って面白いなあ……枕詞って五文字なんだと「俳句ミーツ短歌」で初めて気がついた……散文に枕詞を入れてみたいなあ、散文だと合わないだろうか?