丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二十八日を読む
ーシビアな語りも「地力」が語れば穏やかに聞こえてくるー
五月二十八日は「私は地力だ」で始まる。「土中に含まれる酵素も酸素も飽和狀態に達し 水分も程良く保たれ」た地力とは、作庭にこだわる丸山先生らしい表現だと思いつつ読む。
以下引用文。そんな地力のある土がありながら、世一の父親はかつて夢中だった家庭菜園はもちろん、花の種すら播こうとしない。
そんな父親の人生を「地力」は以下引用文のように分析する。よくある人間像だが、もし「地力」でなく作者自身が語る形をとれば、あまりの辛辣さに耐えられなくなってしまうかもしれない。「地力」だからこそ、シビアな声もどこか遠くから響いてくるような気がする。
日ごとに老いている彼のその目には
すでに夢のかけらさえ宿っておらず、
貫き通すほどの素志も
遂げなくてはならぬ本望も
これといった趣味も持たなかった男は、
この分だと
晩年を根拠なき失意のうちに送る羽目になるやもしれない。
ほかの人々と同様
本来はあらゆる可能性を秘めていたはずなのに
いつしか地方公務員の枠内にちんまりと納まり返ってしまい、
希望の目を育てることを放棄して
あたらべんべんと
徒に時をやり過ごし、
(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』160ページ)