丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む
ー万物の視点で語ることのできる、散文ならではの可能性ー
「私は落ち葉だ」(十月十三日 木曜日)
「私は神木だ」(十月十四日 金曜日)
「私は怒りだ」(十月十五日 土曜日)
「私は日曜日だ」(十月十六日 日曜日)
落ち葉、神木、怒り、日曜日が、不自由なところのある主人公・世一を語っていく。
一人称で語りながら、人以外のあらゆるものの視点で語ることができる……というのが、散文の大きな特徴というか、強みなのだ……と、短歌を少しかじって思うようになった。
短歌は必然的に一人称詩型である。ただ自分以外の誰かの視点に降り立ち、代わりにその人物の思いを歌うことができる。
「千日の瑠璃」は、物の、感情の、曜日の、万物の視点に立って語ることのできる散文……の忘れられている可能性を示していると思う。
そんな人ではない存在たちが見つめる世一は、次第にただの憐れむべき不自由な存在から不思議な力を持つ少年に見えてくる……。
それも人ではない存在が語るからではないだろうか?
以下引用文は、日曜日が語っている。日曜日だからこそ、「覗きこむ」ことも、「逃げ帰る」こともできるのであり、そうした日曜日の姿?に世一のこの世のものではない力を感じる。
そのオオルリは
まさに囚われの身でありながら
飼い主のそれにも匹敵する
非の打ち所がない
無碍の境地に達しているかのように思えてならない。
きょうという新鮮さをバネにして
私は世一とオオルリの双方の心を覗きこもうとしたものの、
残念ながら
影と闇とが複雑に入り混じる
底なしの淵に引きずりこまれそうになり、
慌ててそこを飛び出し
光輝の世界へと大急ぎで逃げ帰る。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」65ページ