丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻を読むー数多の物語を孕み、旅立ちへとうながす風景描写ー
女のことを忘れようとする船頭の大男。
その心を見つめながら、月は別の世界を照らしてくれる。
月光が射すところには無数の物語がある……
昼間の風景とは異なる妖しさ、美しさよ。
そんな月明かりの光景を語る文に、読み手も知らず知らずのうちに、船頭や屋形船おはぐろとんぼと一緒に再び船旅に出たくなる……。
静止した月が動きへ、旅立ちへと背を押す不思議さを感じた。
月はというと
孤立無援の放浪者を惹きつけてやまない
ぱったりと交通が途絶えた街道……
いかめしい門の佇まいに不似合いな
趣にあふれた庭園……
長日月にわたって一心不乱に考えつづけるという
重い思索の淵に沈んだ後
長編叙事詩を一気呵成にかきあげた
凡俗の顰蹙を買う怪童のおとなびた横顔……
真夜中の奥に聳立した山々を縫って滑翔する
槍の穂先のようなくちばしを持つ怪鳥……
廉潔の士として知られるよそ者の
救いがたい手落ち……
なんぞをどこまでも優しく照らした。
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」下巻391頁)