丸山健二「風死す」1巻を少し再読する
ーリズムを感じる!ー
ぼーっと読んでいる私は、幾度も繰り返される「風死す」の後にだけ「。」があるのに、ようやく今日気がついたような気がする。
「風死す」を他の人に見せると「章がない……」と驚かれることもある。章の代わりに、全体を律するリズムのようなものをつくり出そうとされて、文のレイアウトに、全く脈略のない記憶の流れのように見える文に、工夫が凝らされている気がする。
以下引用文は、普通の小説で言えば、章と章の区切れにあたる部分だと思う。現世へのやりきれなさが左斜め下りのレイアウで記され、やがて「風死す。」と終わる。
次の菱形部分を半分くらいだけ引用してみた。最初「死んだ思想は」で始まるが、「幸あれ」とだんだん浮上してくる感がある。こうして次なる章が始まる……。
そんなリズムを感じながら読んでみよう。
立ちこめる霧の魅惑に身を委ねて
現世の存在に不審を抱きつつ
悲しみを強いる出来事に
軽々に扱われがちな
おのれの存在を
不憫に思い
その一瞬後
風死す。
死
んだ思
想は 無の
底へと沈んでゆ
く 家を捨てて放恣
な生活を送る者に幸あれ
混じりけなしの悲しみが徐々
に薄らいでゆく
(丸山健二「風死す」1巻311頁からページ数のないページより)
丸山健二「千日の瑠璃 終結」1巻を少し読む
ー闇と明け方にコントラストを、バトンタッチを感じる!ー
十月二日は「私は闇だ、」で始まって「いつもながらの闇」が語り手となる。
そんな闇の存在感を「さざ波と力を合わせ」とか「これ以上ないほどの優しさを込めてそっと包みこむ」と、池に横たわる老人の骸への接し方であらわす視点も面白いなあと思う。
あと「そら豆に似た形状の頭」という幼鳥のあらわし方も、「そら豆」でグッと喚起される気がする。
ここでなんと言っても光を放つのは、「麻痺している脳のせいで 意思に関係がない動きを選択しがちな肉体を授けられ」という少年世一の存在感だ。
「双方の目と目が合った刹那 鳥は鳥であることを忘れ 少年は人である立場を忘れ」というように、鳥と心を通わす不思議な存在。
祖父の骸から幼鳥を助け出すと、世一は祖父のことは忘れて家に戻る。
そのとき死者が倒れてゆく描写が、命をバトンタッチしたという安堵感に溢れていて好きだ。
「私は闇だ、」で始まるこの箇所の最後が、以下引用文のように、祖父の骸を染めてゆく朝陽というのも、対照的で鮮烈に心に残るし、バトンタッチというテーマが繰り返されているような気もする。
「 」内は「千日の瑠璃 終結1」より引用。
そして
私といっしょに輝ける昧爽へすっと呑みこまれたかと思うと
大気をまんべんなく染める黄金色の坩堝に
無造作に投げこまれて
どろどろに溶かされてゆく
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」9ページ