移りゆく日本語の風景ー浄瑠璃、活弁士、朗読家、声優と名は変われど、語りを愛する心は変わらないのかもしれないー
神奈川県立図書館ボランティア朗読会へ行き、六人の方の朗読を聴く。
朗読する側と聴いている側が一体となって、一緒に本を読むような良い時だった。
日本では他の国よりも朗読をする、朗読を聴いて楽しむ……という文化が形を変えつつ、受け継がれているように思う。
先日、福島泰樹先生がNHK青山のカルチャーセンターの教室でたしかこう語られていた。
「日本には浄瑠璃のように舞台、語り、音楽と分けて楽しむ文化があった。
だから日本だけ活弁士と楽士が活躍する無声映画が盛んになった。
トーキーの時代になって、実際の俳優の声を聴いた観客は声がよくないからがっかりした。」とのこと。
無声映画からトーキーの時代になって、人々はさぞ嬉しかっただろうと思っていた私はびっくりした。
以下、ジャパンナレッジの日本百科大辞典の「活弁士」の項目より引用。少し長くなるが、やはり「活弁士」が愛されてきた経緯が分かって面白い。
活動写真弁士の略称。映画の旧名称である活動写真の説明者をいう。サイレント映画時代、スクリーンの傍らで映画の解説、登場人物の台詞 (せりふ) 、情景の説明などを行うのを職業とした芸人。日本における映画の初公開は1896年(明治29)であるが、公開の手配はすべて興行師が行ったため、客引きの口上言 (こうじょういい) がついた。これが活弁の元祖である。初期には上映前に映画の原理や作品の解説などをする前説 (まえせつ) と、上映中にしゃべる中説 (なかせつ) とがあったが、1920年代に入って前説は廃止になり、また活弁という名称にかわって、映画説明者あるいは映画解説者といわれるようにもなった。活弁は、スクリーンに映っている俳優自身がスクリーンの後ろで台詞をいう形式から、やがて弁士がその俳優の声色 (こわいろ) を使う声色屋の時代、サイレント末期になると弁士自身の個性ある話芸を聞かせる時代へと推移した。活弁の話芸が売り物であり、写真は添え物で、ファンは活動(写真)を見に行こうといわず、だれだれ(弁士の名前)を聞きに行こうといった。活弁がこのような主導権をもったのは日本の映画興行の特性で、外国では字幕と音楽伴奏だけの上映が普通であった。当時の日本の観客の大部分は外国映画の欧文字幕が読めないということもあり、また浄瑠璃 (じょうるり) をはじめとする語物の伝統も根強く、活弁は不可欠、当然のこととして定着した。観客が自己の鑑賞力に自信をもたず、感動の度合いまでも説明者の指示に従いたがったという側面もあった。当時の有名な説明者に、(途中省略)などがいた。政府統計によると、1926年(昭和1)には日本全国の弁士は女性も含め7576人であったが、30年代になり、トーキーの普及とともにほとんどの弁士は廃業せざるをえなくなり、活弁の時代は終わった。
さて、活弁士は絶えたかに思えるが……。
語りが途絶えたわけではない。
今でも声優に憧れる若者は多い。
自分の声で語る……ことに日本人がかくも魅力を感じるのはなぜ?と不思議に思う。
浄瑠璃、活弁士、声優、朗読……と時代によって形を変えつつ、語りの文化は日本から消えないかもしれない……
そんなふうに思えた本日のボランティア朗読会であった。お疲れ様です。