丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十一日を読む
ー悲惨と隣り合わせだからこその慈愛ー
七月十一日は「私は慈愛だ」で始まる。孵卵器で孵ったばかりのアヒルの雛に童女が注ぐ慈愛が語る。
前半の慈愛に満ちた世界の穏やかさ。後半のその穏やかさが「知らない方がいいことを知らずにいて、 ために 底なしの無邪気さが保たれている」という事実。このコントラストを皮肉をまじえないで、真摯に見つめる視線に「この世とは……?」と思わず考えてしまう。
以下引用文。童女の慈愛の世界。
ここには
手遅れで策の施しようがないことなどひとつだってありはしないし、
それにまた
華奢を極めた生活にはどうしても抜け落ちてしまいがちな
質素な暮らしのなかにこそ宿る
温かい条件がすべて用意されている。
(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』335頁)
以下引用文。
童女からさほど離れていない場所では、母親が手慣れた手つきで雄の雛を「ぐらぐらと煮え滾る熱湯のなかへ無造作に投げこんでいる」
また医師免許を失った元医師が「母親になりたくない女が宿した子を 密かに始末している」
そんな現実を知らないからこそ、慈愛は「崩壊を免れ」「全体を意味し」「生きるに値する何かを 有している」
ひどい現実と隣り合わせだから、慈愛の存在は強いのだなあと思うけど、「知らずに済んでいて」だからかどうか……慈愛はそんなにやわなものではない気もする。
幸いにも知らずに済んでいて
だからこその天国の気配に満ち、
崩壊を免れている私は
この世の一部でありながら
全体を意味し、
生きるに値する何かを
有している。
(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』337頁)