丸山健二「千日の瑠璃 終結2」四月十六日を読む
ー自由ー
昨日から二日分戻って四月十六日「私は風呂敷だ」で始まる箇所へ。風呂敷に魚の素干した塩干しをぎっしり詰めこんだ行商の娘が書かれている。もしかしたら日本海側からバスに乗って信濃大町まで行商に来た娘を、丸山先生が観察して「千日の瑠璃」に登場させたのではないだろうか?
私は風呂敷だ
素干しや塩干しにした魚をぎっしり詰めこんだ箱を
いっぺんに五つも包んでしまう
唐草模様の大きな風呂敷だ。
まだ二十歳そこそこだというのに
私を用いて行商をしている娘は
私と同様
体の芯まで魚臭が染みついていた。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」390頁)
以下引用文。なぜ、この行商の娘を書こうと思ったのか……媚びない人間の魅力を感じたのだろうか……作者の心を考える。
彼女は客に対して
礼の言葉も発しなければ
申し訳程度の愛想笑いすら浮かべず、
にもかかわらず
けっして悪い印象を与えることがなく、
(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」391頁)
以下引用文。売れ残った魚を丘の上の世一の家に置いてきた娘は、風呂敷を「いっぱいに広げてオオルリのさえずりをくるみ それを代金として受け取る」
娘の姿に「自由」を見ているのではないだろうか……という気がしてくる一文である。
バスを待つあいだ
暖かい風に吹かれながら
気分で購入した板チョコをぼりぼりと齧り、
鼻歌を唄いつつ
どこか遠くへ目をやって
周りに誰もいないのに
素晴らしい笑みを浮かべるのだった。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」 393頁)