丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む
ー躍動感のもとになる言葉ー
十月二十九日は「私は畑だ」で始まる。
語り手は蕎麦畑。耕している禅宗のお坊さんたちのことを皮肉を込めて語り、しびれを切らして「落石のごとき突然」な世一の出現を待ちわびる。
丸山先生が普段眺めているだろう大町の光景が浮かんでくるような文である。
「蕎麦などはむしろ手を掛けてやらないほうが上質になる」(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」115頁)ということも知らなかったし、
禅宗のお坊さんたちが蕎麦畑で作業をする……という姿も思い浮かべたことがなかった。
大町では、もしかしたら目にすることのある風景なのかもしれない。
登場した世一が随分と躍動感あふれるのは「ジグザグに突っ走り」「好きなだけ踏みしだき」「びゅんびゅん振り回してという強い言葉にあるのかもしれない。
さらに「陽光を撥ね返すほどの暗い奇声」「人間である限りは何をしても無駄」……そんな世一の不可思議な姿を考えてしまう。
「神も仏もあったものではない そんな世一を制止できる僧侶は皆無だ」(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」115頁)という最後の言葉はどこかユーモラスであり、作者の宗教への考え方を反映しているようにも思う。
だしぬけに登場した彼は
高い土地から低い土地へジグザグに突っ走り
収穫寸前の蕎麦を好きなだけ踏みしだき
棒切れをびゅんびゅん振り回して薙ぎ倒し、
降り注ぐ陽光を撥ね返すほどの暗い奇声を発し
人間である限りは何をしても無駄という
そんな意味の笑声を撒き散らして
悟り澄ました空間を
大いにかき乱した。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」116頁)