丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十七日を読む
ー言葉ならではの心の発酵過程ー
四月二十七日は「私はモクレンだ」で始まる。「一本の木に白と紫の両方の色を半々に咲かせた」「派手なのか地味なのかよくわからないモクレン」が語る。
以下引用文。モクレンのもとに冬の間咲き続けたシクラメンを休めようとする娼婦、寂れた宿・三光鳥の女将が写真を撮ろうとしたところに世一も割り込んで、二人の女たちと共に笑い転げながなら写真を撮る……という一瞬である。
映像であれば一瞬で終わってしまう場面である。でも不幸であるはずの三人が笑っている……という事実に、「幸せとは?」と考え、「無罪を勝ち取る」という言葉に罪深く思える者たちへの肯定を読み取り、そうこうしているうちに「現世の嘆きから瞬時に解き放たれ」という文に読んでいる側も自由が見えてくる気がする。
今日、故人の写真から生前の動きや表情を再生するAIを搭載したアプリの、死者の再生動画の投稿をたまたま目にした。若くして亡くなったお母さんの写真からの再生ということで、再生した方ご自身もお母さんに再会して感動、その動画を見た大多数の人も肯定的なコメントを寄せていた。
でも……嬉しい気持ちは分かるのだが、本物の母でなくアプリが再生した母親に感動してよいものだろうかとも思った。
そしてアプリによる再生が感動を与える時代、文章による表現は益々厳しいものになって大半は討ち死にしてしまうだろう。
作家による表現、それを脳内に喚起して愉しむ読者……という関係、アプリが再生する画像を楽しむユーザー……とでは根本から反応が違うのかもしれない。以下の引用文が心に引き起こす反応を振り返ったとき、そう思えてきた。
アプリ再生画像は誰の心でも揺さぶることが可能である。そう仕向けることが実に簡単である。
でも文章による再生は、書く方も、読む方も、鍛錬しないと難しい。でもその分、脳と脳が絡み合って思いがけない方向に展開してゆく面白さがあるのだと思う。
そんな三人の底抜けの明るさに釣られたのか
当分のあいだ花を付けないシクラメンが笑い
今を盛りと咲き誇る私もついつい笑ってしまい、
要するに私たちは皆
挙って束の間の幸福に浸っており、
たとえ造物主と言えども
その歴然たる事実は否定できないはずで、
シャッターが切られるまでのあいだに
春の光によって公平な裁きを受け
全員揃って無罪を勝ち取り、
カシャッという小気味のいい音によって
現世の嘆きから瞬時に解き放たれ、
まほろ町の生きとし生けるものすべてが
歓談に時を忘れて
きらきらと輝き、
この世に存する意義が
急浮上してくる。
(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』37頁)