さりはま書房徒然日誌2023年12月22日(金)

宮沢賢治「ポランの広場」を読む

ー宮沢賢治と浅草、浅草オペラの接点を知るー
ー「ポラン」という言葉の意味を調べる!ー

福島泰樹先生の「人間のバザール浅草」講座で、「宮沢賢治の浅草」というテーマで講義を受けた。宮沢賢治と浅草、そしてオペラ……という思ってもいない接点を、浅草オペラに賑わっていた時代を教えて頂いた。

思えば賢治が上京を繰り返した、大正五年から(関東大震災)をはさむ昭和六年までの十五年間(上京数八回、滞在日数延べ日数三五〇日)は浅草が最も活気に満ちた時代であった。日本の大衆文化、いや文化そのものを浅草が担ったといっても過言ではない。

(福島泰樹「宮沢賢治の浅草」資料より)

浅草オペラの誕生は「ゴンドラの歌」が流行した翌年の大正六年二月一日、常盤座。

(福島泰樹「宮沢賢治の浅草」資料より)


大正六年十月から「コロッケの唄」「カルメン」「ブン大将」「ボッカチオ」など和製ミュージカル、オペラ、オペレッタが続々と浅草で上演され、田谷力三や藤原義江の時代に。
やがて大正十一年にエノケンが登場……という説明を受けたあと、浅草オペラの曲を次々と聴かせてもらう。

思わず口ずさみたくなるような、心温まる声である。おそらく宮沢賢治もこの歌声に心躍らせて聴いたことだろう。

自作の劇を演出、生徒たちに上演させ、劇中にはきまって浅草オペラさながらに歌がはめこまれた。

(福島泰樹「宮沢賢治の浅草」資料より)

そんな曲がはめこまれた宮沢賢治作品をいくつか紹介してくださった。

その中でも、「ポランの広場」という作品が気に入ってしまった。まず「ポラン」という言葉の響きが、とても魅力的である。

何か意味があるのだろうか……と調べてみれば、pollen (ポラン)には「花粉」という意味があるらしい。ただし宮沢賢治がこの英単語から「ポラン」と書いたのかは不明ではあるが……。

私は日本語で言わないで英語で言おうとする風潮は嫌いなのだが、このポランだけは別である。響きも、小さい形も、「花粉」と書くより「ポラン」の方がしっくりくる気がするのだ。

「ポランの広場」の冒頭のト書き部分を読めば、やはり宮沢賢治が見ただろう浅草オペラの舞台がくっきりと浮かんでくる。

ベル、
人数の歓声、Hacienda, the society Tango のレコード、オーケストラ演奏、甲虫の翅音、
幕あく。
舞台は、中央よりも少し右手に、赤楊の木二本、電燈やモールで美しく飾られる。
その左に小さな演壇、
右手にオーケストラバンド、指揮者と楽手二名だけ見える。そのこっち側 右手前列に 白布をかけた卓子と椅子、給仕が立ち、山猫博士がコップをなめながら腰掛けて見てゐる。
曠原紳士、村の娘たち、牧者、葡萄園農夫等 円舞。
衣裳係は六七着の上着を右手にかけて、後向きに左手を徘徊して新らしい参加者を待つ。
背景はまっくろな夜の野原と空、空にはしらしらと銀河が亘ってゐる。
すべてしろつめくさのいちめんに咲いた野原のまん中の心持、
円舞終る。コンフェットー。歓声。甲虫の羽音が一さう高くなる。衣裳係暗をすかし見て左手から退場。
みんなせはしくコップをとる、給仕酒を注いでまはる。山猫博士ばかり残る。


(宮沢賢治「ポランの広場」)

以下は山猫博士が歌う歌。

つめくさの花の 咲く晩に
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏のまつり
酒を呑まずに  水を呑む
そんなやつらが でかけて来ると
ポランの広場も 朝になる
ポランの広場も 白ぱっくれる。


(宮沢賢治「ポランの広場」)

以下は山猫博士に対抗して、ファリーズ小学校生徒のファゼロが歌う歌。

 つめくさの花の かほる夜は
 ポランの広場の 夏まつり
 ポランの広場の 夏のまつり
 酒くせのわるい 山猫が
 黄いろのシャツで出かけてくると
 ポランの広場に 雨がふる
 ポランの広場に 雨が落ちる


(宮沢賢治「ポランの広場」)

「ポランの広場」は短いながら、幻想味が強く、どこかユーモラスで印象に残る。青空文庫にあり短いので、興味のある方は読まれてみては……と思う。

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