丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む
ー平凡な人間への慈しみ、「暦」と「カレンダー」のイメージの違いー
十二月二十七日は「私は暦だ」で始まる。
カレンダーではなく、暦なんだろうか……と思ったけれど、以下引用文を読んだら、やはりカレンダーではなく、暦のイメージなのかもしれないと納得する。
「暦」という言葉になぜか付きまとう地味さは何なのだろう?田舎町まほろ町のイメージに合うのは、やはり「暦」なのだ。
まほろ町の宣伝のために
役場が少ない予算をやり繰りして作り
関係先のあちこちに配ったものの
評判がさほど芳しくない暦だ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」350ページ)
以下引用文。役場の中間管理職である世一の父親が、役場からもらってきた暦を見る様子……希望も予定もなく、そのことに不満があるわけでもなく、平凡な人間の生活とはこういうことなのだろうと思う。
どこかユーモラスな父親の姿に、平凡であることへの慈しみの視線を感じる。
だからといって
来年の予定を立てるためでも
漠とした希望を胸に年を越すためでも
歳月の虚しさを改めて噛みしめるためでもなく、
彼のどんぐり眼は
私の三分の二を占めている
郷土出身の演歌歌手に注がれているのだ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」351ページ)
それにしても「暦」と「カレンダー」では、どこか違うのだろうか……と日本国語大辞典を調べてみた。
以下引用文は、日本国語大辞典より「暦」の説明。例文は省略したが、日本書紀720年から1862年までの例文が載っていた。昔から使われ、でも近代ではあまり頻繁に見かけなくなった語なのかもしれない。
時の流れを、一日を単位として年・月・週などによって区切り、数えるようにした体系。また、それを記載したもの。昼夜の交替による日の観念から出発し、月・太陽の運行と季節感との関係などに注目して発達した。太陰暦・太陰太陽暦・太陽暦などに分けられる。現在用いられているのはグレゴリオ暦。なお、現在日常用いられる暦表には、月ごとに曜日と対照させたものや、日めくりの類がある。
以下引用文は「カレンダー」について日本国語辞典より説明と引用文。説明もあっさりしている。例文を見てみると、暦にカレンダーとルビがふってあり、暦と比べるとお洒落な印象のある言葉なのだろうか……と思う。
暦(こよみ)。特に、一年間の月日、曜日、祝祭日などを、日を追って記載したもの。鑑賞用の絵、写真が添えられていることが多い。
*社会百面相〔1902〕〈内田魯庵〉女学者・下「外国製の美くしい暦(カレンダー)」
*嘲る〔1926〕〈平林たい子〉七「小山は、カレンダーを一枚はいだ。三十一日は青紙だった」
田舎町まほろ町で配られるのは、どこか昔風の響きのある「暦」がいいのかもしれないと思った。