アゴラとは逆方向を目指す街
今日は所用で千葉駅西口広場方面へ。千葉駅西口はだだっ広い広場に小さな、寝転べない意地悪ベンチが二つあるのみ。改札に行く通路にもベンチはなし。駅のホームにもベンチは見かけなかった気がする。
なぜ人が足を休め、談笑する場をつくろうとしないのだろうか……?
そういう発想がないのか?それとも意識的に人が休めないようにしているのか?
南フランスの田舎町ペルピニャンの広場をふと思い出す。
ペルピニャンでは広場を囲むようにテラス席のあるカフェが並んでいる。夜になれば家々から皆カフェにやってきてテラス席で好き勝手なことを喋り、最後は広場で手を繋いで輪になってバスク地方のダンスを踊る……。
田舎町でもアゴラがある……そんなペルピニャンの夏が遠い風景に思われた。
デジタル大辞泉によれば、アゴラとは
古代ギリシャの都市国家の公共広場。アクロポリスの麓にあって神殿・役所などの公共建築物に囲まれ、市民の集会や談論・交易・裁判などの場になった。
人が休めない街とはただ不親切なだけではなく、集会や談論からも遠ざける街なのだと思う。こんなアゴラとは逆方向を目指す街が、日本中に増殖している気がする。
丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」を読む
丸山先生の大切なテーマのように思える生と死。生なき存在である筈の屋形船おはぐろとんぼが四季を生き生きと語ることで、不思議な妖しい美しさが風景に宿り、生と死というテーマをくっきり際立たせるように思う。
花の笑む頃になると
きまって気持ちが浮つく性分……
白南風がそよと吹き始める頃になると
必ず湧き上がる胸の泉……
屹然として聳える山吹岳の遠くに
蜘蛛手に弾ける花火が見える頃になると
ひたひたと押し寄せる充足感……
夢ならぬ現実として
銀色に輝く尾花の波が押し寄せる頃になると
ふんわりと包みこんでくる哀調……
(丸山健二「おはぐろとんぼ夜話」上巻415頁
福島泰樹「百四十字、老いらくの歌」を読む
福島泰樹「百四十字、老いらくの歌」より「道玄坂の歌」を読む。この本は、福島先生が毎日ツィッターに投稿した373首だそうだ。「ツイート文が長歌なら、短歌は反歌だろう」と帯にある。長歌があるおかげで、短歌の思いも分かりやすい。
「道玄坂の歌」には、戦争で、東北地方大震災で、色々思いを残して亡くなっていった死者を詠んだ歌がある。
この季節、道に咲く紅白のオシロイバナの花を見ていると、花々の影に歌に詠まれた死者の姿が見えてくる気がする。
「百四十字、老いらくの歌」の「道玄坂の歌」 より、そうした死者を詠んだ福島泰樹先生の歌を次に五首ほど紹介させて頂く。
戦争で死んだ母さん、歴史とは……波に呑まれてゆきし人々
炎に灼かれ叫ぶ人々黒焦になった人々、ぼくは見ていた
死者は死んではいない 髪や指の影より淋しく寄り添っている
燃えながら逃げゆく人を 泣きながら背中に隠れ見ていたのだよ
暗い眼でおれを見据える男あり はるか記憶の闇のまなこか