丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ードッペルゲンガーの心情も、ドッペルゲンガーを見る方の心情もつぶさに語られている!ー
自分のドッペルゲンガーを見つめている「おれ」。
ドッペルゲンガーの心情を考え、批判的に眺めている幽霊の「おれ」。
ドッペルゲンガーが伝える義母殺害、自殺してからの自分への「おれ」の今の思い。
だんだん誰が誰なのか分からなくなってくる。
いや、どれもが「おれ」なのだ。
「我ら亡きあとに津波よ来たれ」ほど、ドッペルゲンガーの心も、ドッペルゲンガーを見る方の心もつぶさに語っている作品はない気がする。
まずは「おれ」が観察する船の上のドッペルゲンガー。
その船首に物憂げな様子で独り座し、
紛うことなき死者でありながら
永遠化へと昇華される稀有な存在を気どり、
重大な意味を孕む蛮行に出た生者になりきり
根源的な罪を枝葉末節なものとして片づけたがるおれになりきっている
そ奴は今、
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻408頁)
このドッペルゲンガーは、死んだ状態で「おれ」に発見され、すでに埋葬されている。
そんな埋められた筈のドッペルゲンガーが、あれこれ自殺するまでを演じてみせる滑稽さを、以下のようにこう表現するか!と思った。
しかし、
ひとたび埋葬された者が
何をどうやってみたところで
その行為のどれもがおのれを愚化する隠語のように伝わりづらく、
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻413頁)
そして「実際のおれ」は以下。
でも自殺しているから、生きているわけではない。
ならば、
陰々滅々とつづく空洞のごとき生からひたすら逃れんとする
あれからここに至るまでの
実際のおれはどうだったかというと、
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻419頁)
何が真実で、何がドッペルゲンガーなのやら……文字を追いかけるうちに混沌としてくる感覚。不思議な体験である。