丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む
ー詩と散文のあわいを進む文ー
ー巡りが原とは誰?ー
以前、どなたかが丸山先生に「詩と散文の違いは?」と尋ねられていたことがある。
先生が何と答えたかは定かに記憶していないが、「詩になりかけながら、踊るようにして散文を書いたっていいじゃないかと思う」そんなことを言われていたような記憶がある。
以下引用文にそんな言葉がよみがえってきた。
たしかに踊りながら散文と詩のあわいを進んでゆくような、丸山先生ならではの独自の文体だと思う。
げんに
祝婚の歌と踊りが似合いそうな
今を盛りとはびこる豪奢な夏のなかにあって
それぞれが運命を読み解く鍵を握っているにちがいない万物が
存在者としての節度を守りつつも
こぞってこんなことを叫んでいる
「現世は虚構にすぎん!」
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」288頁〜289頁)
以下の引用文を読んで、「いかなる権力にも従わぬ」「常に独立している」という巡りが原は、丸山先生自身の姿を投影した存在なのだと思った。
高原に作家が自分の思いを託して語ると、人間が語るときにはないような深み、ユーモア、説得力があるように思う。
いくらひろがっても全体をうしなうことのない
底なしに明媚な碧緑の地のなかで
不可視なる波目模様を描きつつ
入り乱れながら野を飛ぶ光と風は
狂騒の季節の完璧を期すべく
無欲な暮らしが似合いそうな
あっけらかんとした夏空を背にして
自由奔放さをいかんなく発揮し
深い無関心を装いながらも
ある種の呪力をもって
「巡りが原」という
ひょっとすると不滅かもしれぬ民間伝承の名を穢すことなく
いかなる権力にも従わぬことを旨とするこの私を再構成し
常に独立しているわが哲学をさらに錬成するのだ
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」304頁〜305頁)