さりはま書房徒然日誌2024年1月8日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「雨」から「風土」まで万物の視点から自在に語ることができるところに散文の凄さがあるのかも!ー

「千日の瑠璃 終結1」と「風死す」を交互に読んでいくと、あらためて文体がまったく違う、どっちもチャレンジフルなんだけど違う……と思う。

「千日の瑠璃 終結」は散文がスキップしながら思いがけない表現にジャンプする感じだけど、「風死す」は最初から哲学詩、物理詩……という感じがする。
この違いはどこから来るのだろうか?「千日の瑠璃 終結」は、まだストーリーというものが核にあって、小説寄りだからなのかもしれない。

十月六日は「私はため息だ」で始まる。
世一の姉がつくため息が、田舎の図書館に勤務しつつロマンス小説にはけ口を求める切ない彼女の日々を語る。

十月七日は「私は九官鳥だ」で始まる。
世一が捕まえたオオルリの幼鳥と比べたら「オオルリと比べたらおまえなんぞ鳥のうちに入らん」とペットショップの主人に罵倒される九官鳥が語る。
鳥を飼うのが大好きな丸山先生らしい箇所である。

十月八日は「私は雨だ」で始まる。
雨は「もう長いこと生活にくたびれ果てていることに まったく気づいていない母親の目を覚まさせる」のだが、そんな母親を語る口調が雨らしく、時にしっとりと、時に荒々しいのが面白い。

十月九日は「私は風土だ」で始まる。まほろ町の風土が語る田舎の嫌な雰囲気は、ずっと田舎に住んでじっと田舎の人間模様を観察してきた丸山先生だから書ける文だろう。

ひたすら権門に媚び
   後難を極度に恐れ
      弱者の心を汲み取るような気高い観点が苦手で


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」35ページ

権力と金力を背景に国家を牛耳ろうとする野心家に
   一も二もなく盲従する態勢を常に備えている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」35ページ

そういう田舎町に暮らす丸山先生を彷彿とさせる小説家も登場する。

芸術家にあるまじき堅物でありながら
   病的なほど穿鑿好きな小説家も
      私のことを文学の宝庫と買い被ってくれており、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」37ページ

田舎の醜い部分には、人間模様が濃縮されているのだろうか……?
一番最初の勤務がど田舎で、「田舎の人間関係は私には無理!」と思った私には、田舎に身を置いて冷静に観察して小説を書く丸山先生はすごいと思う。
「私は◯◯だ」と、九官鳥から風土に至るまで万物の視点で語ることができる……というのは、散文の凄みなのかもしれない。


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