丸山健二「風死す」1巻を少し再読する
ークラゲのパンチ力ー
ガンという病に侵されつつ逃亡する主人公の心細さがよく伝わってくる箇所だと思った。
元素まで持ち出すことで人間的なドロドロしたものが消え去って、ポツンとした感じだけが残る。「うつけ」と「クラゲ」と「ふらふら」というイメージが重なり、「クラゲ」から「うっすらとした」にも「ひしと抱きつき」にも違和感なくイメージが飛んでゆく気がする。
「クラゲ」が効いている文だと思った。
すべての元素が融合を開始した大宇宙の初めまで遡って
あらゆる存在がうつけのように思えてしまう空間を
クラゲにでもなった気分でふらふらと漂いつつ
うっすらとした自己認識にひしと抱きつき
(丸山健二「風死す」1巻340ページ)
丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」を少し読む
ー作者の身近な物が語ると作者の姿がよく見えてくるー
十月四日は「私は鳥籠だ」と漆塗りの和籠が語り、十月五日は「私はボールペンだ」とボールペンが語る。どちらも丸山先生が普段から親しんでいる存在だから、文の至る所に作者の気配がする。
以下引用文。野鳥が大好きな丸山先生ならではのリアリティあふれる文だと思う。幼鳥の嘴が柔らかいという感覚は、言われると納得するのだが、自分ではとても思いつきそうにない。
それから餌の蜘蛛は脚をもぎ取るのか……私には鳥を飼うのはとても無理そうだ。
餌鉢にまだ柔らかい嘴を近づけて
逃げ出さないよう肢を全部もぎ取ってある
大小の蜘蛛つつき回し
丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」17ページ
十月五日の「書くために生きるのか 生きるために書きつづけるのか」わかっていない、分かろうともしない小説家……には、丸山先生の姿が濃く反映されているのだろう。
「仔熊にそっくりな黒いむく犬」をハンドルにしがみつかせてスクーターで走る姿も、
「悩みらしい悩みを知らぬ妻とふたりきりで 粗末だが幸せな食事をとる」という姿も、
「言葉に頼り過ぎて本質を見失った書き手が多過ぎる」という思いも、
すべて丸山先生自身のものであろう。
そして最後の呟きも、おそらく丸山先生の思いではないだろうか?
安物の原稿用紙をぐいと引き寄せ
蚊の鳴くような声で「それでも書いてやる」と呟いた
丸山健二「千日の瑠璃 終結 1」21ページ