丸山健二「千日の瑠璃 終結1」一月三日を読む
ーわずかな文字数で様々な思い、現在、過去、未来を語るのは散文だからなんだろうか?ー
一月三日は「私は凧だ」で始まる。
「千日の瑠璃」は一日ごとに語り手が順々に変わるが、一日がおそらく640字程度で書かれいるのだろうか(正確に数えた訳ではなく、おおよその目算である)。短歌にすれば二十首ほどになる。
一月三日も他の日と同じようにわずか4ページで語られてゆく。
そこで語られるのは凧の思い、世一、世一の飼うオオルリの囀りが跳ね返す平凡な日常、出所した世一の伯父の獄の日々と現在と未来である。
散文と短歌それぞれの魅力があるとは思うけれど、短歌二十首でこれほど語ることは、一人称視点や五七五七七の縛りがあるから、私には難しい気がする。そういう縛りがあるから短歌は面白くもあるのだが。
わずかな文字数でここまで語ることが出来るのは、そうした縛りがない散文ならではの強み……のような気もする。
とにかく、よくぞこれだけ短い文字数で語るもの……と感心する。
以下引用文。様々な想いを語ったあと、凧は世一によって爪切りで糸を切られ、空へ飛んでいく。
色々語った後で、世一が点のように見える終わり方が映画のようでもあって印象に残る。
ほとんど理想的な風を絶え間なく受けて
心憎いほど巧みな造化と天工の中心へ向かって
測り知れぬ自負を背負ったまま
私は高々と舞い上がってゆき、
今や世一は
取るに足らない点の存在だ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」381ページ)