丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十一日を読む
ー重い文やら軽やかな文やらー
六月十一日は「私は笑声だ」と、「気立ての優しい盲目の少女 彼女のバラ色の唇から迸る 屈託のない 透明な笑声」が語る。
笑い声が届く様々な人々の、重苦しい其々の生。その直後に描かれる少女の笑声の軽やかさ、純真さが対照的。このコントラストが鮮やかだなあと思う。
以下引用文。少女の笑声は様々な人々に届く。私はどれにあたるのだろうか……と思わず探してしまう。
長年連れ添った夫の顔を顔を見忘れるほど惚けた者も
どこまでも生命的なる存在として神を崇めたてまつる者も
世界は果てしない罪悪の連鎖であるとする者も、
不満の鬱憤はらしを探している者も、
はたまた
年甲斐もなく修羅を燃やす者も
耐乏生活を送っている者も
知友を亡くして間もない者も
皆一様に相好を崩す。
(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』215ページ)
以下引用文。少女の笑声が届いた人々の重苦しい描写とは一転、不自由ではあっても軽やかな少女の様子が心に残る。
上天気のきょう
少女は初めて湖へ入ることを許され、
波と波にゆすぶられる白砂に両足をくすぐられた彼女は
母親の方を振り返って笑い
水しぶきを跳ね上げて駆け回る白い犬に笑い、
そして私は
程良い風に乗ってはるか遠くへ散ってゆく。
(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』216ページ)