さりはま書房徒然日誌2024年11月3日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月十一日「私は蚊だ」を読む。

十月十一日は「私は蚊だ」と蚊が語る。少年・世一の血を吸った蚊の気持ちがなんともユーモラスに書かれている。血を吸ったときの蚊の気持ち……を書いた文は、これが初めてではないだろうか?

なんて酷い味だ
   私が知っているなかでは最悪の血だ、

吸えば吸うほど頭がくらくらして
   ひょっとすると
      吸われているのはこっちのほうかもしれないと
         そう思った途端
            長の患いから派生した恨み辛みが
               どっと侵入してきて、


その余りの勢いに押されて
   たじたじとなる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』305頁)

北村透谷『楚囚之詩』を読む

北村透谷が20歳のとき自費刊行した長編叙事詩『楚囚之詩』を読む。経歴を見てみると、自由民権運動に感化されるも過激さを増してゆく運動から離脱。結婚。この詩集を刊行。そして25歳で自殺。
そんな濃くも激しい人生を暗示しているような処女作。獄中にある自分、やはり獄中の花嫁や仲間……合わせて四人がいる獄中……を思い、当時はきっと費用のかかった自費刊行をするとは……。何が北村透谷をここまで追い込んだのだろうか?

 獄舎は狭し
 狭き中にも両世界ー
彼方の世界に余の半身あり、
此方の世界に余の半身あり、
彼方が宿か此方が宿か?
 余の魂は日夜独り迷ふなり!


北村透谷『楚囚之詩』

ちなみに「楚囚」とは、日本国語大辞典によれば「とらわれた楚の人。転じて、敵国にとらわれの身となって、望郷の思いの切なる人。囚人。とりこ。」だそうである。

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さりはま書房徒然日誌2024年11月2日(土)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』(田畑書店)「何はともあれ、生きてみようか」を読む

ーお見舞いにもよいし、エッセイの書き方を学ぶにもよい本ー

『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』の目次を眺めていると、なんとも前向きになれそうな言葉が並んでいる。一章あたりの長さといい、前向きな章題といい、病院に入院している人へのお見舞いにもよさそうな本である。

大町の庭の自然に人生をかぶせ、長野の風景から思いを語る本書は、今時の日本の作家には珍しく哲学とユーモアが溶け合って、エッセイの醍醐味に満ちている。


四季も自然も失われつつあり、国語教育でも実用的な文書が重んじられる昨今、こういう深くて軽妙なエッセイに触れる機会が少なくなったのでは?


エッセイを書いてみたい方にとっても、本書は良い指針になるのでは無いだろうか?

そしてこの冬もまた、厳寒に閉ざされたがために発生した御神渡りよろしく、魂の湖面を人間的にして文学的な言葉が突き破って飛び出しました。創作活動を止められない所以が、きっとここにあるのでしょう。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』10ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年11月1日(金)

宮沢賢治『ポラーノの広場』を読む

『ポラーノの広場』に限らず、宮沢賢治作品にはよく知っている場所に出来た異空間を覗きこむような味わいがある。

モリーオ市、イーハトーヴォ、センダードの市、にぎやかながら荒んだトキーオの市、ポラーノの広場……という岩手を、東京を思わせながら異国風の地名。
主人公のモーリオ市の博物館に勤めるキュースト。
キューストが知り合う少年ファゼーロとその友達で羊飼いのミーロ。
地主のテーモ。
山猫博士のボーガント・デストゥパーゴ。

馴染みのある地、想像ができる人物なんだけど、どこかこの世のものではない響きがある名前の人物が、異空間を覗かせるような地名の地で、こんな言葉を発すると、もう心は遠くどこかを彷徨うのではないだろうか。

「おや、つめくさのあかりがついたよ」
 なるほど向うの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのような白いつめくさの花があっちにもこっちにもならび、そこらはむっとした蜜蜂のかおりでいっぱいでした。

宮沢賢治『ポラーノの広場』上23ページ田畑書店ポケットアンソロジーより

さらに大正末期、昭和初期に書かれた作品なのに、登場人物は夏用フロックコートを着ていたり、カフスをしていたり、現代の大量生産のフリース姿が歩いている街より、服装も個性的である。
さらに食べ物もオートミールとか……。

宮沢賢治の財政面での豊かさが、嫌味のない形で異空間に溶け込んでいる気がする。
ポラーノの広場の語源は、種子ポランに由来するという説も聞いたことがある。そうかもしれないが、人民を意味するイタリア語ポポラーノの意味もあるといいなと思いつつページを閉じる。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月31日

製本基礎講座第5回

ー製本ドリルスタート!バインダー作りー

製本基礎講座も第5回。


今日から講座の開始時に製本ドリルというおさらいの短いドリルがスタートした。今まで学んだことについての確認を短いドリル形式で講座開始前にやるそうである。

緊張するけれど、少しずつコツコツ積み重ねていける(私の場合、積み重なっていないけど)のが、手製本工房まるみず組の講座の魅力の一つだと思う。


今日のドリルは紙の目について。よく分かっていなかったところである。なので早速答えを間違え、先生に再度説明して頂き、家でまた調べ、薄ぼんやり「紙の目」なるものが感じられてきた(呑み込みが悪い)。


製本をする方々はみんな「目」「目」「目」と言われ、「目」って本を作る上で大事なものなのだ……と、そこだけは理解。
でも編集者や書き手、ZINEを作成している人たちで「紙の目」にこだわっている人、知っている人はあまりいない気がする。仕事の種類が違うせいもあるかもしれない。

でも製本をするサイドが心から大切にしている紙の目を、編集者、書き手、ZINE発行者がほとんど意識されていない……というギャップに、どちらも本を作っているのに脳内に浮かぶ本という存在が違うのでは……それでいいのだろうかとも考える。
紙あっての本……という意識が薄い本づくりは、だんだん本としての魅力を失っていくのでは?

などと偉そうなことは言えない。
今日のバインダー作り、測る場所を間違え、正確にラインを引いたつもりが2ミリの誤差が。
さっと見ただけで2ミリの誤差に気がつく先生はすごい。言われると確かに2ミリ分おかしく見える。
それにしても定規を使っていたのになぜ私は正確に測れないのだろうか……。

先生のおかげで無事に完成したバインダー。布、糊、ボール紙、金具だけで形になるとは……不思議である。


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さりはま書房徒然日誌2024年10月30日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月七日を読む

ー最期の瞬間に垣間見る緑の火ー

私は火だ、

不幸にして生後日ならずしてあっさり死んでしまった嬰児が
   短い滞在期間であったこの世を離れる
      その最期の瞬間に垣間見た
         緑がかった火だ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』286ページ)

私の父は亡くなる前日だったろうか、病院の個室の白い壁を見て「綺麗な緑の光だなあ」と晴明な意識の中で言い、何も見えていない私の様子に悟った顔をした。
あのとき父が見た緑の光とは薬の副作用なのか、あるいは彼岸の世界が見えていたのだろうか……。
それとも丸山先生が「そして私は 周辺の森や林で造られた酸素を 精根込めていっぱいに摂りこみ」と書かれているように、現実世界が父を送り出そうと見せてくれた火だったのだろうか。
いずれにしても、この世を去る直前、私には見えない、なんとも美しい緑の光に心打たれていた父の顔の安らかさ、純真さをふと思い出した。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月29日(水)

私だけのポケットアンソロジーRAEDING NOTEBOOKつくりにトライして、製本基礎講座「一折り中とじ」の復習をする

ーチリが現れる筈なのに……!ー

手製本工房まるみず組製本基礎コースで教えてもらった「一折り中とじ」を復習する。一折り中とじは、絵本によくあるようなページ数の少ない時の製本方法である。

田畑書店ポケットアンソロジーは色んな短編や詩歌を綴じない形で販売。素敵なファイルが各種販売されているので、読者はみずからがアンソロジストとなって好きな短編を選び、ファイルに綴じていくことができる。


READING NOTEBOOKはポケットアンソロジーと同じ書籍用高級用紙を使い、同じスタイルをとりながら、中は自由に感想や絵が描けるように白紙になっている。

(以下、READING NOTEBOOKの元々の姿。ページをめくると白紙になっている)


製本講座のときは本文から折っていくが、ポケットアンソロジーはもう折丁になっているから少し楽である。

でも相変わらず、思いがけないところでつまずく。

背に貼る寒冷紗はどちらも同じ感触に思え、どちらが糊ボンドを塗る面なのだろう……と迷う。

糸でかがっていくけど、最後まで来てどこか違う……よくテキストを見たら「一つ飛ぶ」と注意書きのあった箇所をスルーしていたのに気がつき、最初からため息をつきつつかがり直す。

ボール紙も相変わらずカッターでは中々切れない。ボール紙無間地獄にいる気分になりながら、カッターをいつまでも滑らせる。

折丁の背と表紙の背を糊ボンドでつける……でも中々くっつかない。

ようやく見返しと表紙をくっけるところまで到達。くっついた!でも「ちり」が現れない。薄く小さいだけにミリ単位できちんと測らないとと反省。一応ミリ単位で測ってはいるのですが、測る、切るって難しい。

下の写真が失敗作。ブヨブヨしているのは、やはりミリ単位できちんと測れていないせいだと思う。

反省する点の多い失敗作だけれど、それでも私だけのREADING NOTEは愛おしいもの。

田端書店のポケットアンソロジー、素敵なファイルに綴じてもよし、頑張って私だけのこの世に一冊の手製本作りにトライしてもよし、色んな楽しみ方がありそうである。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月28日(月)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』(田畑書店)より「初めまして」を読む

この本について年下の女性が「最初、私自身が読んでから、そのあと両親にプレゼントするつもりなんです。両親からどんな感想がかえってくるか楽しみなんです」と言われていた。そうか、この本に限らないけれど、良い本というものは異なる年齢をつなぐ存在なのだなあと思った。
以下引用文に年をとる切なさを思い、でも切ないだけではない素晴らしさも思う。「言の葉が束になってどっと溢れ出」る八十歳になってみたいものだ……その前に夜明けの執筆ができるように夜更かし生活を変えなくては……と反省。

芽吹きを待つ気持ちが募り、というか今年が最後の花見になるのではないかという切ない焦りに駆られたりもします。
たぶん、その反動のせいでしょう。凛とした夜明けの執筆では頭が異常なまでに冴え返り、言霊に限りなく近い言の葉が束になってどっと溢れ出ます。

(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』6ページ)

昨夜は気がつかなかったが、この本は表紙、花ぎれ(本文の天と表紙の間のリリアンみたいなもの)、しおりの色合いが美しい。他社の本と比較してみたけれど、こういう美しさを感じる本はなかった。
製本講座を少し受けてみて、ここまでビシッと決める難しさを知るようになった。
花ぎれやしおりを選ぶ頃には疲労困憊してヨレヨレで、適当に選んでしまっていた……のを反省。奧付きを見れば、装丁は「田畑書店デザイン室」とある。これから田端書店の本の装丁、隅々までじっと見て学ばせて頂くことにしよう。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月27日(日)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』(田畑書店)が我が家にも到着した!

ー信濃大町の風が吹いてくるような装丁ー


丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』(田畑書店)が我が家にも到着。待ちに待った丸山先生の新作エッセイとの家での対面となる。

装丁で丸山先生の世界をすべて表現しているようで素敵。
信濃大町の丸山先生の庭を思わせるような表紙の緑には、雪をかぶった北アルプスの稜線の絵がラインでお洒落に描かれている。

緑の表紙には、丸山先生の人柄さながらに小さく白字で「丸山健二」と控えめに記されている。
見返し部分は雪のような優しいクリーム色めいた白。

帯も扉も同じ黒。この黒はもしかしたらNTラシャ黒の中でも黒が一番濃い「漆黒」なのでは?と私の手元にある「漆黒」と比べる。
実は田畑書店のポケットアンソロジーを糸でかがって、NTラシャ「漆黒」で表紙をつけて鞄に入れて毎日持ち歩いているのだ。
比べてみるとやはり同じ色のような気がして、何だか嬉しい。写真ではこの黒を綺麗に再現できないのが残念。

この帯は、通常の帯と比べてかなりデカくてインパクトがある。もしかしたら製本機械で帯を折るのは無理だったのでは?田畑書店の方々が手で折ったのでは?と色々想像する。
大きな帯にも、扉にも黒を使われたのは、丸山先生のシンボルカラーが黒だからなのでは?至る所に丸山先生へのレスペクトを感じる装丁である。
帯には金のラインで北アルプスの稜線が絵が描かれている、朝日?夕焼け?どっちなのだろうか?
扉絵は雪をかぶった北アルプスの稜線だろう、銀色のラインで絵が描かれている。

手にしただけで信濃大町の自然がどどっと雪崩れ込んでくる。
さらにページを開けて、丸山先生の文を読み始めると完全に大町にいる感じになる。でもその感想はまた後日。


とにかく手にした瞬間に紙の本の醍醐味、丸山先生の世界を味わうことのできる装丁である。もちろん丸山先生の文は切なくなってくるほど大町から世界を書いている。それについてはまた後日。

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さりはま書房徒然日誌2024年10月26日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月六日を読む

ーキツツキのドラミングが意識に働きかけるー

十月六日は「私はキツツキだ」で始まる。キツツキがうたかた町の人間模様を語る。

以下引用文。日頃キツツキを眺めて暮らしている丸山先生らしい文だと思った。

才覚以上の山気に富んだ男は
   私が鞭打ち症にならない謎を解き明かし
      画期的なヘルメットを発明してひと儲けを企み、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』282頁)

キツツキのドラミングが契機となって、様々な人間達が色々な思いや過去を連想していく有様が面白い。確かにキツツキの鋭い連打は意識を揺さぶるものがあるのかもしれない。

一兵卒として大陸へ送られ
   命じられるままに暴虐の限りを尽くしたことを
      今でも戦功と固く信じてやまぬ男は
         私が立てる音から重機関銃を連想して
            全身の血を大いに沸かせる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』283頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年10月25日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』十月五日を読む

ー素朴な美しい言葉ー

十月五日は「私は奢りだ」で始まる。少年世一の、盲目の少女と彼女の飼い犬への奢りが語る。
以下引用文。「ただ青いだけ」という世一の言葉も、「おもむろに天と地を示した」という終わり方も、理解を超えた美しい何かをあらわしているような気がする。

少女がほっそりした指で沖の方を示すと
   すかさず世一は
      「ただ青いだけ」と的確な答えを提示し、

少女と犬と母親が軽自動車で去ったあと
   世一は震える二本の人差し指を用いて
      おもむろに天と地を示した。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』281頁)

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