さりはま書房徒然日誌2026年4月17日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結8』より九月三十日「私は気遣いだ」を読む

「日々悪事を重ねる長身痩躯の青年と 何も求めずに生きることに決めた『三光鳥』の女将の 少年世一に対する気遣い」が語る。

この二人にさらに世一の父親の相手をしてきた娼婦が加わって、世一の噂をしているところに、当の世一の口笛が聞こえてくる。

不自由なはずの世一の意義とは? あらためて、その意義を考える文。

ややあって
   少年世一の口笛が急接近し、

それは湖面を渡る風に吹かれて
   散り散りに飛ばされ、

その断片が「三光鳥」にも届いて
   三人の口を封じ

      三つの心に抗いがたい揺さぶりを掛けた。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』121ページ)

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さりはま書房徒然日誌2026年4月12日(日)

製本応用講座「自作長編を丸背上製本にする」

昨日は中板橋の手製本工房まるみず組へ。

表紙用の革の切り出しをして箔屋さんに預けるところまでいくかな……と革を持参したが、その一歩手前で終了。


手製本はとにかく時間と手間がかかるもの、と実感。
でも、だからいいのだとも。

昨日のレッスン前の製本計算ドリル、久しぶりに計算問題が出てきた。

ここで簡単な計算で間違えたり、そもそも問題の数字を正しく読みとれてなかったり(老眼は悲しい)とバタバタする。

今日も作業台は満員御礼。
イギリスのご夫婦、アメリカの女の子の間で作業する。

まずは寒冷紗を背中に貼って余分部分を切り落とす。

丸背のきわは指先でぐりぐりなぞる。

花布つけて(丸背のせいか、ついたと思えど何度も落下してしまう)

天地を間違えないように確認して栞ひもつけて(以前、間違えたことがあった)

茶色の部分は「クータ」と呼ばれる紙筒。

クラフトペーパーとかで背幅部分に合わせて筒をつけて背中にペタリ。

「クータ」は、機械製本ではあまり付けられていないようだけど、本にかかる力をクータが分散して背割れを防止する……そんな縁の下の力持ち。

本の平部分の茶色は適当な紙で本体をギュッと締めるウースという物。これも表紙と合体するため、安全のためつけておいた方がいいらしい。

背が完成!と思うも、先生からきちんと接着されていない部分をあちこち指摘される。
そういう部分から、本はへたっていくらしい。
また接着しているうちに時間は経過。

機械製本のおかげで大量に本が行き渡るようになったのはよいことだけれど。

でも元々本は大量生産、効率とは縁のないところで、時間をかけて作られて、限られた人に大切にされてきたものなのだなあ……と、手製本のおかげで学んだように思う。

中板橋、石神井川の桜はすっかり葉桜になっていた。

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さりはま書房徒然日誌2026年4月10日(金)

製本応用講座「自作長編を丸背にする」&パッセカルトン11回

中板橋の手製本工房まるみず組へ。

まるみず組の春休み明けということもあり、何かを始めたい4月ということもあり、1日体験の参加者も多くいらして賑やか。

私のいた作業台には、若い女性二人が初めての和綴じ本作りに。
お若い男性が初めての角背上製本作りに。
外国の方が思い出の本をリメイクされたり……色々トライされてた。


私もやった筈の作業なのに、先生が教えていらっしゃる様子を見ると「ああ、そうか!」と思い出したり、初めて気がついたりすることしばしば。

同時進行していく他の方の色んな作業を眺め思い出したり、確認したりできるのが、まるみず組ならではの面白さ……だと思う。

パッセカルトン11回

バラした本の中央に極薄和紙の細長い短冊を貼っていく。

前回よくくっついていないことに気がついたので、今回、糊の濃度を濃くしてみた。

するとダマになって和紙がボロボロちぎれていく。
先生に訊いたら、やはり濃すぎるとのこと。


薄めた和紙をたっぷり塗りつけると、今度は途中でビリビリ切れてゆく。

適量を塗って、テフロンヘラでしっかり、でも優しく擦る、しかないようである。

ちなみに図書館で修復される場合、こうした作業もあるらしい。時間がかかるし、とても大変。
そんな図書館、もっと大切にしたいもの、と思う。

製本応用講座「自作長編を丸背上製本にする」

今日は背中部分の作業。

軸糸をパッツンと切って短くする。

見返しに響かないように糸をほぐす。

理想はタンポポの綿毛。

でも、がんばれど私のは海中のワカメ状態だ。なぜ?

何回もやっている作業なのに、私はうまく出来ない、なぜ?

そこでまるみずの先生の一言アドバイス。

「根本からほぐしましょう」

私は押し倒してカリカリほぐしていたが、先生はたてたまま根元からほぐし、途中で指先でほぐす。

するとフワフワのタンポポの綿毛になった!

タンポポの綿毛状態でないと、見返しを貼ったときモッコリして見てくれが不細工になってしまう、とのこと。

無事にほぐし終わって一息つくも、ない!前回作った筈の花布がない!

しっかり本と一緒にビニール袋に入れた筈なのに!

ない!ない!とあたふたしていたら、まるみずの優しい先生が一緒に探してくださる。

あった!次々と先生が見つけてくださる。

本を袋から出した時にうっかり落としたのだろう。

床に盛大に散らばっていた。

小物は小物だけで袋に入れなくては……と反省。

表紙に使う革の箔押しについて先生と相談。表紙が見えてきた!

中板橋の桜も葉桜に。もう今日の風で散ってしまっただろうか。

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さりはま書房徒然日誌2026年4月8日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結8』より九月二十九日「私は屈託だ」を読む

『千日の瑠璃』の面白いところは、世一の物語を語っているようでいながら、色々な世界がさりげなく語られていること。

「私は屈託だ」には丸山先生の姿が色濃く滲んでいる。

「自者と他者を交互にじろじろ見つめる」という姿は丸山先生そのものだ。

「文学を生業」「気を入れた仕事」というあたりは、今、文を書いている人ととは意識が違うのかもしれない。他の作家さんの話を聞いてもそう感じる。

私にとって文学は、青空に向かって夢中になって飛ばすシャボン玉的存在……なのかもしれない。
文学はお金にならず、職業にもならず、でもシャボン玉のように美しく世界を映して消えるからいい……気がする。

文学を生業として
   それなりに気を入れた仕事をつづける男の
      自己と他者を交互にじろじろ見つめる日々への
         なんとも執拗な屈託だ。

‘(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』114ページ)

以下引用分。
こうした書き手、読み手への容赦ない文も、反発される原因の一つだろうが、丸山先生らしい言葉である。

そのご面相では一生費やしても手に入りそうにない
   夢と憧れの恋愛でも書いて
      現実を理解したがらない
         屈折し過ぎた臆病な読者と共に
            お伽話の世界に浸るがいい。

‘(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』116ページ)

それよりも、もっと丸山先生らしいのは以下の文。

この哀しみと生と死の危ういコントラストが、一番丸山先生らしい気がする。

どんなに生きても得体の知れぬおのれの影を追い求めて、

動的な生命と静的な生命
   悲しい行為と喜ばしい行為
      そして
         生と死の狭間を縫って突き進み


‘(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』117ページ)

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さりはま書房徒然日誌2026年4月2日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結8』より九月二十八日「私はセキセインコだ」を読む

リゾート開発運動をめぐって対立する自然保護運動派から格好の攻撃のまとであった世一のオオルリ。

選挙で勝利してもらって丘の家を売って儲けようと企んだ世一の親は、オオルリを逃してしまう。

その代わりに買われた「まほろ町の秋の言うに言われぬ哀愁の色に覆われた 売れ残りのセキセインコ」が語る。

まるで人間が動物を語るようなセキセインコの語り口である。

その語り口に、作者は世一を冷ややかに眺める家族、まほろ町の人々の姿とセキセインコを重ねているのではないだろうか……とも思った。

ところが
その少年たるや
      無意味にして無駄な動きをのべつくり返し、


難病のせいで学校へ行くこともあたわず
   一瞬の命の糸を無意味に紡ぎつづけるばかりで、


どちらかといえば
   いかにも好事家が手を出しそうな珍獣を想わせ、


協調や互譲の精神といったものに著しく欠けた目を
   のべつはるかな虚空の空に注いでいた。


( 丸山健二『千日の瑠璃 終結8』112ページ)

 

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さりはま書房徒然日誌2026年4月1日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結8』より九月二十七日「私は命だ」を読む

老僧が物乞いに語って聞かせる「命とは」「死とは」の話は、どこか遠い世界のことにも思える。

だが最後、オオルリを失って悲嘆にくれる世一が登場すると、命が、死が、突然あざやかな色彩を帯びて迫ってくる。

世一は命であり、死でもある……と思った。

そして
   そこの一軒家の軒に吊るされた風鈴を一回だけちりんと鳴らし
      空っぽの鳥籠を抱いて眠る少年を目覚めさせ、

なぜか心が酷く荒れている彼は
   ほどなく湖を見下ろす崖っぷちに立つと
      私のことを突き落とそうとした。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』109ページ)

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さりはま書房徒然日誌2026年3月29日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結8』より九月二十五日「私は道標だ」を読む

「うつせみ山の頂の方向を指し示しつづけて ちょうど十年目に入り あと九十年は優に持つであろう がっちりとした」道標が語る。

そんな道標が浮かんでくるのも、以下のように登山者を見つめることができるのも、信濃大町に長く住んでいらっしゃるからだろう。

身近な風景から徐々に人生を見つめる視点へと変化、色々考えるところが多い。

これまで私は
   人生の尾根よりも
      なぜか荒くれた山脈を踏破したがる者たちの命を
         幾つ救ってやったか知れず

(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』99ページ)

遭難しかけた若者が道標にいたずら書きをする。

「右腕」「左腕」と道標が語ると、何だか人間に近づいてきたような感じがする。

そいつは
   使いこなせることではなく
      高価なことだけが自慢のピッケルを使って 
         山頂を指すわが右腕に〈地獄〉と
            まほろ町を指す左腕に〈極楽〉と刻みつけ


(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』100ページ)

「修行よりもむしろ静養のほうが必要そうな 若き僧侶」は、ナイフでその文字を直す。

同じ場所を見るにしても、その人の心次第でかくも見え方が異なる……ことが人間の悲しさなのかも。

優に二時間は費やして
   左右の文字を入れ替え、

そのあとで
   いったい何が悲しいのか

      号泣しながら下山した。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』101ページ)

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さりはま書房徒然日誌2026年3月26日(木)

パッセカルトン講座&手製本応用講座「自作長編を丸背上製本にする」

咲き始めの桜も寒そうな雨日和のなか、中板橋の手製本工房まるみず組へ。

パッセカルトン10回

前回ページ中央部分に薄い和紙を貼って補強、ワックスペーパーでサンドしてプレスした。

今日はワックスペーパーをはずし、はみ出ている和紙をチョキチョキ鋏で切る。

だが前回貼った筈の和紙が結構剥がれていたり……。後日もう一度やり直そうと除けたページがたくさん。

糊をつけたとき、もっとヘラでゴシゴシ擦らないといけなかった……と反省。

向こうの作業台では、基礎課程を終えた方々が卒業制作の発表をされていた。

私も見せてもらったり、触らせてもらったりした。

卒業制作だからだろうか、どの作品からもその人が大切にしている想いがストレートに伝わってくるようで、あらためて手製本の素晴らしさを思った。

手製本応用講座「自作長編を丸背上製本にする」

今日はいよいよ背中の丸みだし……でも中々上手くいかない

本にきっちりウースをかけ(適当な紙でくるりと巻く)、背中をかすかな水気で湿らしてから、丸みだしのトンカチ作業へ。



でもこの後の作業は写真を撮る余裕がなかったので、去年の写真から。

このバッキングプレスという道具に本をはさむ。

でも私には丁度いい位置、丸背の横、耳が出る位置にきちんとはさむのが難しかった。

丸み出しのトンカチで叩けど、中々丸くならず。耳も中々出来ず。

でもトンカチで叩いていると汗が出てくる。でも上手く丸くならない。

最後、先生がやってくださると、あっという間に丸くなってゆく。でも先生に重いトンカチで叩かせてしまった。申し訳ない限り。

丸背、しくじりかけましたが、先生のおかげで何とか丸背に。

私が自作長編を手製本にしていると聞いた外国の方が「それって私の憧れ!」と言われたような気がする(覚束ない私の英語)

書く、自分の手で本にする……というのは大変だけど、万国共通の幸せな時なんだなあと思った。

中板橋の夜桜を眺めつつ帰途へ。

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さりはま書房徒然日誌2026年3月25日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結8』より九月二十三日「私は選挙だ」を読む

リゾート開発波と自然保護派に分かれた、まほろ町の町長選。

大学教授が率いる自然保護派は身内から大麻栽培者が出たりで、破れてしまう。

入院した夫に代わって、選挙後の挨拶に立つ教授夫人の思い。

田舎暮らしの単調さを紛らわす手段になりかねない自然保護運動の危うさ……田舎暮らしをされている丸山先生だからこその視線がある。

こんなことでもなければ何もない日々を
   延々とくり返すばかりで、

ささやかな変化と
   安直な感動に飢えきっているかれらの臭い芝居に
      結局のところ利用されていただけではないかと
         本気で疑い始め、

そして自分もまた
   そのひとりであったことを悟った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』93ページ)

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さりはま書房徒然日誌2026年3月24日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結8』より九月二十一日「私は月見草だ」を読む

月見草を語るにしても、信濃大町でひたすら庭作りに励み、愛情を込めて植物を見ている丸山先生ならでは。

私なんかは、月見草と言われてもぼんやり姿が浮かんでくるくらいだが、この文でそう言えばこんな形だった……と佇まいも、雰囲気も浮かんでくる。

夕日の余光のなかで
   よじれた蕾を準備し
      夜の帳を鋭敏に感知して
         一気に開花へと突き進む
            狭い庭に似合う月見草だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』85ページ)

そんな月見草を見つめているのは、「一向に回心の見込みがない皇軍兵士の成れの果て」の老人。

それでも月見草に心動かされて、こう語りかける。

今度はしゃがれ声で
   「わしもおまえのように儚い存在でありいたいもんだ」と
       そんなことを言ってのけ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』84ページ)

しかしオオルリが元兵士の老人の思いを打ち砕く。

この冷徹な声は、丸山先生の戦争に加担した者への言葉なのだろう。

でもオオルリが語ることで厳しい口調にも、人を頷かせるものが出てくるように思う。

するとそのとき
   すぐ近くで
      まったくだしぬけに
         しかも明瞭な発音で
            「おまえには悶死が相応しい」と
                そう鳴いたのは、

長いこと飼われていたに違いない
   ために人擦れした
      一羽のオオルリだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』85ページ)

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