さりはま書房徒然日誌2024年7月16日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月十四日を読む

ーこの世ならぬ雰囲気へー

五月十四日は「私は午睡だ」で始まる。人生がうまくいかず、うつせみ山の竹林の草庵にこもる老人がむさぼる午睡が語る。

以下引用文。彼、すなわち体の不自由な少年世一が午睡中の老人と私(午睡)に気がついて近寄ってくる。
そして鼾の真似をすると「老体にずっしりとのしかかって 私ですらどうにもできなかった重荷が たちまち崩壊」する。
そんなあり得ないようなことも、うっすら目を開けて鼾の真似をする世一の無邪気な様子やら竹林の神秘めいた描写に、読み手も思わず納得して「この世ならぬ雰囲気」へと一緒に進んでゆく気がする。

ほどなく彼は濡れ縁の年寄りに気づき
   ほとんど同時に私にも気づいて好奇心が刺激され
      ふらふら近づいてくると
         何を思ったのか
            その隣にそっと体を横たえて
               うっすらと目を開けたまま
                  鼾の真似を始める。

すると
   どうだ、

   老体にずっしりとのしかかって
      私ですらどうにもできなかった重荷が
         たちまち崩壊し、

         少年の鼾や竹の葉擦れの音によって
            もしかするとあの世とやらへ運び去られそうな
               そんな気配が濃厚になり
                  付近一帯にこの世ならぬ雰囲気が漂い始める。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』105頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月16日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月十三日を読む

ー世一の悲しみー

五月十三日は「私は丘陵だ」で始まる。「丘陵」が見つめる少年世一はいつもと違って体の揺れもなく、微動だにしない。

以下引用文。やがて丘陵は世一の心の悲しみに気がつく。

最初の「世一は〈無〉それ自体を眼中に納め 〈虚〉を表象して止まぬ震え声を微かに発しており」という文から、悲しみが抽象的な画像となって浮かんでくる。

風の「だしぬけに甦った 幼心にも悲しい記憶」という言葉から、「静かに去って行く」姿から、世一の悲しみがひしひしと伝わってくる。

素手で足元に穴を掘る世一の姿にも悲しみが溢れそうである。

「いっしょに投げこみ 土をかぶせて埋め戻し」の悔しさ、やりきれなさに波立つのはうたかた湖の湖面か、それとも私の心なのか……。

世一は〈無〉それ自体を眼中に納め
   〈虚〉を表象して止まぬ震え声を微かに発しており、

   打ち見たところ
      何やら事情がありそうで、

         そこで私は
            当人を避けて
               いったいどうしたのかと
                  風に訊いてみる。


すると風は
   だしぬけに甦った
      幼心にも悲しい記憶に
         ああして耐えているのだと
            そう答えて
               静かに去って行く。


耐えるだけ耐えた世一は
   やがて素手で足元に穴を掘り、

   ついでその穴に
      母親が確かに吐いた「あの子はもう駄目よ」と
         父親が口癖のように呟いた「駄目なものは駄目さ」という言葉を

            いっしょに投げこみ
               土をかぶせて埋め戻し、

               そんな彼の悲痛な叫びが私にこだまして

                  うたかた湖が一面に波立つ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』101ページ)  


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さりはま書房徒然日誌2024年7月14日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月二日を読む

ー丸山先生がそっと作品に挿入する己の姿ー

五月二日は「私は才能だ」で始まる。自分の家に火をつけたがる子どもは、親を含めすべての大人たちから見放されている。そんな子供に備わった「天賦の才能」が語り主である。
以下引用文。そんな放火しようとする子供に「ライターよりペンを持つべきだ」三度くり返して止めに入る小説家は、黒いむく犬と言い、じろじろ観察するところと言い、メモ帳にすぐメモするところと言い、「質を高めようと奮闘する」ところと言い、丸山先生そのものではないか。丸山先生が語るご自身の姿に思わず微笑ましくなってしまった。

スクーターに熊の仔そっくりな黒いむく犬を乗せてひたすら走り回り
   まほろ町の隅から隅までを無礼千万な眼差しでじろじろと観察し
      何かに気づくたびにメモ帳を取り出して記載する男、



売れないことを承知で物した著書をよしとしながらも
   もっと質を高めようと奮闘する
      さほど文学好きとは思えぬ小説家が
         まさにそれだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』57頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月13日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月一日を読む

ー粒子にロマンを感じてー

昨日に続けて「私は粒子だ」で始まる五月一日について。
以下引用文2箇所。粒子の無機的な動きに感情を重ね、この世の在り方、人間の運命について想いを馳せる文を読んでいるうちに、「粒子」という感情のない存在から叙情が響いてくる。
その旋律に耳を傾けていると、自分のいる普段の世界が別の空間に思えてくる……。
『千日の瑠璃』の中でも好きな箇所である。

思えば私は若い頃、フランシス・ポンジュの詩とか、無機質な対象を書く詩が好きだった。その名残が今もあるのかもしれない。

私は粒子だ、

   その辺のどこにでも無限に存在して
      現れたり滅したりをくり返しながら
         気随気ままに飛び交っている
            落ち着きのない原子核を成す粒子だ。


我ながら惚れ惚れするほど美しい放物線を描いたり
   有頂天になるほど完璧な渦をもたらしたりしながら
      何処からともなくやってきては
         また何処へともなく去って行く私は、

光と闇の配分が絶妙な
   整然たるこの宇宙をしかと組成する源であり
      重力及び時の流れを制御する支配層であり
         存在の存在たる所以を解く唯一の鍵である。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』50ページ) 

動くことこそが私の本質であり
   核心であり
      創造主に課せられた使命そのものであり、

絶え間ない動きは
   大小さまざまな変化を生み出し、

      
   変化は誕生と死滅を差し招き、

   生と死は互いに申し合わせ
      手を取り合って
         回転運動に興じる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』52ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月12日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』五月一日を読む

ー違う次元から眺めているような美しさー

五月一日は「私は粒子だ」で始まる。「粒子」の視点というのは、丸山先生の素に近いものがあるのだろうか?この箇所は、ひときわ心に残る文がある。明日に分けて見ていきたい。
以下引用文。「粒子」の語るまほろ町は「因果律のいっさいを余すところなく抱えこむ」、少年世一は「麻痺した脳に幾千億個もの恒星の輝きをちりばめている」、オオルリは「魂の形状そのものとしか思えぬ」であり、違う次元から眺めているような美しさが感じられる。

そこへもってきて私は
   四方を青い山々に囲繞されてはいても
      現世のすべての物象や現象
         それに因果律のいっさいを余すところなく抱えこむまほろ町や、


眺望が利き過ぎる片丘のてっぺんに住んで
   麻痺した脳に幾千億個もの恒星の輝きをちりばめている
      難病によって未来への扉を閉ざされた少年世一や、


そんな病児と奇しき出会いでもって固く結ばれた
   魂の形状そのものとしか思えぬ
      一羽の若いオオルリをも
         しっかりと形成している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』51頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月11日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十九日を読む

ー「時と共に直進する」ー

四月二十八日は「私はカラマツ林だ」で始まる。
以下引用文。カラマツ林の下で元大学教授夫妻は子供たちの四十年前を思い出すうちに、回想に耐えられなくなってしまう

やがて夫妻は
   回想の重さに気づき
      それに耐えられなくなって
         私から離れて行ってしまった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』45頁)

以下引用文。元大学教授夫妻が過去にとらわれ、その重みに耐えられなくなっている姿とは対照的に、世一には過去もなければ、未来もなく、動物のように現在だけを生きている。時の感じ方の違いも、そういう様子を「現在と共に直進する」と表現しているところも面白い。

ほどなくして今度は
   振り返ることも
      先を見ることもしないで
         現在と共に直進する
            青尽くめの病児が訪れた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』45頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月10日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十七日を読む

ー言葉ならではの心の発酵過程ー

四月二十七日は「私はモクレンだ」で始まる。「一本の木に白と紫の両方の色を半々に咲かせた」「派手なのか地味なのかよくわからないモクレン」が語る。
以下引用文。モクレンのもとに冬の間咲き続けたシクラメンを休めようとする娼婦、寂れた宿・三光鳥の女将が写真を撮ろうとしたところに世一も割り込んで、二人の女たちと共に笑い転げながなら写真を撮る……という一瞬である。
映像であれば一瞬で終わってしまう場面である。でも不幸であるはずの三人が笑っている……という事実に、「幸せとは?」と考え、「無罪を勝ち取る」という言葉に罪深く思える者たちへの肯定を読み取り、そうこうしているうちに「現世の嘆きから瞬時に解き放たれ」という文に読んでいる側も自由が見えてくる気がする。

今日、故人の写真から生前の動きや表情を再生するAIを搭載したアプリの、死者の再生動画の投稿をたまたま目にした。若くして亡くなったお母さんの写真からの再生ということで、再生した方ご自身もお母さんに再会して感動、その動画を見た大多数の人も肯定的なコメントを寄せていた。

 でも……嬉しい気持ちは分かるのだが、本物の母でなくアプリが再生した母親に感動してよいものだろうかとも思った。
 そしてアプリによる再生が感動を与える時代、文章による表現は益々厳しいものになって大半は討ち死にしてしまうだろう。
 作家による表現、それを脳内に喚起して愉しむ読者……という関係、アプリが再生する画像を楽しむユーザー……とでは根本から反応が違うのかもしれない。以下の引用文が心に引き起こす反応を振り返ったとき、そう思えてきた。
 アプリ再生画像は誰の心でも揺さぶることが可能である。そう仕向けることが実に簡単である。
 でも文章による再生は、書く方も、読む方も、鍛錬しないと難しい。でもその分、脳と脳が絡み合って思いがけない方向に展開してゆく面白さがあるのだと思う。

そんな三人の底抜けの明るさに釣られたのか
   当分のあいだ花を付けないシクラメンが笑い
      今を盛りと咲き誇る私もついつい笑ってしまい、

      要するに私たちは皆
         挙って束の間の幸福に浸っており、

たとえ造物主と言えども
   その歴然たる事実は否定できないはずで、


      シャッターが切られるまでのあいだに
         春の光によって公平な裁きを受け
            全員揃って無罪を勝ち取り、

カシャッという小気味のいい音によって
   現世の嘆きから瞬時に解き放たれ、

   まほろ町の生きとし生けるものすべてが
      歓談に時を忘れて
         きらきらと輝き、


         この世に存する意義が
            急浮上してくる。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』37頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月9日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結3」四月二十五日を読む

ー世一という不条理ー

四月二十五日は「私はエプロンだ」で始まる。「母親の立場にようやく慣れてきた女の」エプロンが語る。

以下引用文。母親のエプロンをつかむ幼い双子たちがそっくりであることに、世一は興味をいだき「嬉々としてなおも迫ってくる」
そうした世一に幼い双子たちが感じる「この世にあることの不条理」……そうした不条理を冷静に、目を逸らすことなく見つめるところが、丸山作品の魅力のひとつかもしれない。

生まれて初めてそうした異形の同類を目の当たりにした
   ほとんど瓜ふたつの一卵性双生児は
      たじろぎ
         怯えて
            萎縮し、

            それから
               なんとも形容しがたい複雑な気持ちのなかで
                  この世に在ることの不条理を
                     早くも体験したのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』27ページ)

以下引用文。最初、世一に優しい対応をしていた母親も、そのうち目で追い払うようになり、やがて世一が自分のエプロンで青鼻をかんでいることに気がつくと、「怒り心頭に発して少年を思いきり突き飛ばし」てしまう。
そんな母親の激変を目にした双子たちも、「純なる瞳をたちまち濁らせてゆく」……という終わり方に、人間の心がいかに折れやすいか、その変化が子供達にどう影響してゆくか……丸山先生は客観的に書きながら、そうした人間に哀しみを感じているようにも思えた。

そんな挙に出た彼女に仰天した双子は
   あまりのことに泣き叫ぶことを忘れ、

   茫然自失の体へと移行したかと思うと
      その純なる瞳をたちまち濁らせてゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』29ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月8日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十三日を読む

ー流されるタイヤの自由ー

四月二十三日は「私はタイヤだ」と、大型トラックの荷台から振り落とされてしまったタイヤが語る。
以下引用文。タイヤが転がってゆく疾走感、暴れ回る感じが面白いなと読んだ。

運転手は気づかぬまま走り去り
   思いきって世間へと飛び出して行った私は
      土手の斜面を一気に駆け下り、

      さらにその下へとつづく坂道をごろごろと転がって
         熟しかけている夜の奥へと分け入り、

         まほろ町という名の片田舎へ突入して暴れこみ
            過酷にも程がある現実の障壁を
               次々にぶち破って行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』18ページ)

タイヤはまほろ町の住人たちを観察しながら進んでゆく。
以下引用文。世一を避けて通ろうとした気遣いが仇となって、調子を崩したタイヤはやがて欄干にぶつかって川へと転落してゆく。

タイヤが流されてゆく有り様に、自由を重ねて思う視点が丸山先生らしいと思って読んだ。

いずれは大河へと通じる川へ転落した私は
   大量の水しぶきや自暴自棄の心を飛び散らせて
      ゆるやかな流れに乗って遠い海をめざし、

      自由な存在とは
         要するにこんな立場なのかもしれないと
            そんな思いを強めながらどんどん下って行く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』21頁

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さりはま書房徒然日誌2024年7月7日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』四月二十二日を読む

ー生と死ー

四月二十二日は「私は墓地だ」で始まる。「裏の崖が崩れて以来 訪れる者がぱったりと絶え、ために 埋葬された死者たちと共に忘れ去られようとしている 山中の墓地」が語る。

以下引用文。なじみである世一がやってくるが、墓地はその顔に厭な思いをさせられたような痕跡を認める。
それでも墓地を歩き回るうちに、世一が見た「希望にきらめく四月の彼方」が心に残る。
その直後、足元に見たむき出しになった白骨という展開も、生と死というこの世のあり方を告げているようである。
ちなみに丸山先生の幼い頃、大町のあたりは当然ながら土葬だったようで、土から掘り起こされる白骨の思い出を丸山先生が語っていた記憶がある。「希望にきらめく四月の彼方」と「人骨を一本」という世界は、実際に目にした記憶なのかもしれない。

大きく波打つ五体を持て余しながらも
   希望にきらめく四月の彼方を見やり、

   その目を足元に落とした拍子に
      人骨を一本発見し、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』16頁)

以下引用文。白骨を一本振り回してみせる世一も、もしかしたら丸山先生が実際に目にした少年の姿なのかもしれない。
そうした光景を語る文の、「勇ましく咬みつく」世一の姿も、「この世はこんなものだ」と諭しにかかる墓地の諦めも、ともに丸山先生の思いを重ねているから心に響くのかもしれないと思う。

青々と輝く無辺際の宇宙そのものに
   勇ましく咬みつく彼の思弁は、

   一方においては正しくもあり
      他方においては的外れでもあった。

そこで私は
   「こんなものだ」と言ってやり
      「どうせこの世はこんなものだ」といい重ね、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』16頁)

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