さりはま書房徒然日誌2025年11月17日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より八月六日「私は巨鯉だ」を読む

開発された山を襲った集中豪雨。

そのあと、うたかた湖の主である巨鯉が遠浅の浜でひっそり腹這いになっている。

世一だけが巨鯉に気がつく。

巨鯉の背を撫でる世一。

天候について気休めを言ってくれる「赤く滲んだ月」

その設定だけでこの世の隅に連れて行ってくれる不思議な力がある。


私の事を誰にも喋らないと
   そう世一は約束して
      背中を撫でてくれ、

赤く滲んだ月が
   当分のあいだ災いをもたらす雨は降らないだろうと
      そんな気休めを言ってくれた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』300ページ)

そんな隅っこから眺めてみると、以下引用文の世一の言葉も、巨鯉の言葉もありえない筈なのに、不思議なリアリティを帯びてくる。

そんな状況にあって世一は
   私に付き添いながら口笛を吹き鳴らし
      あるいは
         青々とした歌を唄う。

感激のあまり私は
   うたかた湖の代弁者として命を落としても構わないと言い、

すると
   見るからに利発そうとはゆかないまでも
      生き抜くための優れた資質の持ち主たる病児は
         死ぬことでどうにかなったためしはないと
            そんな意味の言葉を呟いたが
               果たして
                  本当にそうなのだろうか。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』301ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月16日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より八月五日「私はスターマインだ」を読む

夜空に打ち上げられたスターマインが語る。

以下引用文。

冷ややかで美しい花火を語るのに、こんな書き方があるとは思わなかった。


花火が見ているのは観客ではなく、観客の酔眼に映るおのれの映像……。

人間の愚かさと花火のナルシズム的美しさの対比が面白い。

だが私の興味は
   だらだらとありきたりな営みを重ねて
      ほとんど誰にも影響や感銘を与えることなく死んでゆく
         そんな連中に在るのではなく、

わが関心のすべては
   いつだって
      かれらの朦朧とした酔眼にくっきりと映し出される

         私自身に在るのだ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』297ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月15日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より八月三日「私は集中豪雨だ」を読む

以下引用文。

まるで集中豪雨が意思を、自然破壊をする人間への怒りをもって行動しているように感じる。

最後の「マツムシソウの群生地」という箇所が切々と自然破壊の惨たらしさを語りかけてくる。

私が例年になく粗暴な振舞いに及んだのは
   湖に面した西側の山々がまる裸にされたからで、

樹木を失った山をひと想いに押し流してやろうと
   大量の土砂を湖へ運び入れ、

ために
   魚の鰓や水草の気孔を塞いでしまい、

深夜になって崩した小さな山が大きな土石流となって
   造成中の別荘地へどっと襲いかかり、


家がまだ一軒も建てられていない雑木林の一角と
   マツムシソウの群生地である草原の一部を
      完璧なまでに叩きのめした。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』 287ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月13日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より七月二十九日「私はダリアだ」を読む

旅館の女将と長身痩躯の青年はダリアを眺める……

ダリアには可哀想だが、人工的なところのある花にふさわしい描写。

そんな作り物めいた花を見つめている男女の関係、行く末を暗示するような文である。

「男と女がダリアを見ていた」の一文で終わりそうな文に、これだけ含みを持たせ、この後も続いていく。

映画なら一瞬の場面が、言葉を使う表現でかくも広く、深くなるのかと思った次第。

転作を余儀なくされた農家の苦肉の策から生じた私は
   結局のところ出荷されぬまま
      周囲を暗くさせるほどの明るさでもって
         徒に浮き立ち、

しかも
   せせらぎの音と野鳥たちの声を
      幸福もどきの色で染めあげる。

そんな私を見ている両人には
   ひよっとすると
      ただそうやって生きているだけでも間違いではないという
         まばゆい印象の暗示を与えやり、

のみならず
   存外いい組み合わせのかれらのあいだを
      上手く取り持つ役まで果たそうとしている。


 (丸山健二『千日の瑠璃 終結7』266ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月11日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より七月二十八日「私は蛾だ」を読む

以下引用文。少年世一がしゃがみこんで、その背中に蛾がとまった……という場面。普通ならそう書くだろう。

でも、その一瞬に世一の、蛾の、存在を問いかける眼差しが丸山文学の魅力なのだと思う。

そんな一瞬に意味をもたせてもうるさくならない。

それは「おのれ自身の薄い影にじっと見入り」とか
「蝶などには決して味わえないであろう 日陰者としての安らぎ」
という言葉に共鳴したくなるものがあるからだろう。


ただし共鳴しない人が殆どの世、だとは思うが。

暗夜に輝く蛍火の群舞を堪能するまで見物した後
   その少年は今
      街灯の真下にしゃがみこんで
         おのれ自身の薄い影にじっと見入り、

そして私は
   そんな彼の背中にべったりと張り付くことで
      蝶などには決して味わえないであろう
         日陰者としての安らぎを得ており、
         そこは自分にとっての
            究竟の隠れ家である。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』262ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月10日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より七月二十六日「私はあくびだ」を読む

「交通取り締まりの警官たちが連発する 半ば自嘲気味の」あくびが語る。

あくびは警官だけでなく、通りがかったヤクザ者にも、そして丸山先生を思わせる作家にも取り付く。

丸山作品に出てくる様々な、どこか弱い所のある人々の中に、明らかに丸山先生らしき人物が描かれていることがよくある気がする。

作者らしき人物が出現すると、虚構の世界が一気にリアリティを帯びてくる。

日に三時間ほどしか執筆せず
   あとはぶらぶらして過ごす男が
      ハンドルに装着した籠に熊の仔にそっくりなむく犬を載せて
         おんぼろのスクーターを駆って通る。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』256ページ)

そして以下引用文、丸山先生らしき作家が呟く言葉。

こんなふうに半ば呆れ、半ば愛情を込めてこの世を眺めているのか……と、丸山先生の視点から眺める気分になる。

小説家は
   「ああ、人間って奴はもうまったく」と呟き、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』257ページ)



↑ 茄子を描いたつもりだったが、複数の友人から「ゴキブリかと思った」と言われた。

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さりはま書房徒然日誌2025年11月6日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より七月二十三日「私は映画だ」を読む

映画を観るのが大好きな丸山先生らしい文だなあと思う。

以下引用文。
映画を映画館で観るとき、まったく知らない者同士が並ぶ不思議さ、束の間の連帯感で結ばれる不思議さが書かれている。

でもネットで映画を観るようになって、こういう連帯感も失われつつある、と寂しくなる。

そんなかれらは
   それなりに私にのめりこみながら
      各人に互いの存在を意識し合っており、
         思わず苦笑が一致した際には
         ほとんど絆に近いものすら錯覚し、

そして
   ある種の連帯感すら抱くのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』244ページ)
    

以下引用文。

映画を観た後、現実へと戻されていくつまらない感じが思い出されてくる。

三本目をまだ観ていない者はトイレへ寄り
   全作品を観終えた者はそそくさと出て
      虚構ではない
         面白くもなんともない現実の奥へと
            あっさりと呑みこまれてしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』245ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年11月5日(水)

花布(はなぎれ)編みにトライ

11月3日、中板橋の手製本工房まるみず組で「花布編み」のテクニカルレッスンが開催された。

飛び抜けて不器用かつ呑み込みの悪い私には、難易度が高いのは目に見えている……。

どうしようかと思案。参加の形は工房での直接参加、リモートでの参加、後日動画を見ながらの参加が選択できる。

色々迷いつつ、工房で参加する形にした。工房での参加でもテキストのプリントはあるし、動画も配信してくれる。

花布は、本文と背の間にのっているもの。
今では本文と背の境目隠しとして、飾り的なものである。作り方も紐に製本クロスをまいたものが多い。

でも今回学んだのは、ヨーロッパの伝統的な工芸製本パッセカルトンで使われる花布スタイル。
花布を編みながら、本文に縫い付けていくもの。
その中でも一番簡単な編み方で、パッセだけでなく、普通の上製本でも使うことが出来る編み方だそう。

まず並んでいる絹糸全色と色鉛筆(40色以上あったのでは?)から楽しく選択。
テキストの絵に色鉛筆で塗りこみイメージしやすくする。

でも絹糸もだんだん色の種類が少なくなってきているとのこと。寂しい話である。

市販の糸綴じの手帳の表紙を剥がして本文だけにする。

軸となる丸い革紐に絹糸を二色で、先生の解説を聞きながら編み込みスタート。
最初は出来ていた……

だんだん軸紐が勝手に動くし、糸はスムーズに寄ってくれないしモタモタ。

先生が心配して声をかけてくださる。
オンライン参加者もいて大変なのに申し訳ない。
先生がもう一度やり直して下さる。しかも見やすいように特大ライト付き拡大鏡で拡大してくださる作業手順を側で見る。
「わかった」と思って席に戻る2歩の間に、また分からなくなっている……。


他の参加者は花布を天地両方縫い付けて見返し、表紙貼りまできているのに、私の手元には正体不明のものとなってしまった花布が。

そんな私を怒ることなく、先生は私の失敗作をほどいて(ほどくのも大変なのに)もう一度優しく説明してくださる。

私の失敗をほどいて、先生が途中からやり直してくださって片方だけ完成。(↓)
端の方にまだ私の名残りのボコボコがあるけど……

先生が親切にも早速動画を送って下さるとのことなので、残りは家で動画とプリントを見ながらゆっくりやることにして、工房から帰る。

でも家でトライするも、糸がうまく動いてくれないし、謎の動きをしてしまい、ほどいてはやり直し。
絹糸って丈夫だ……と思ったけど、流石にプッチンと切れた。
近くのユザワヤで絹糸を購入(私は裁縫をしないので、絹糸が家になかった)。

すったもんだの挙句、ようやくシマシマらしき物がうっすら見える花布が完成?(↓)

でもシマシマは歪だし、なんか下の部分が先生みたいにシマシマになっていない。

もう一度ほどいてやり直そう。

こうして編んだ花布は綺麗な飾りになるだけでなく、本文に縫いつけるから本が頑丈になる気がする。

最初から動画を見て家でやれば……と思われるかもしれない。
でも工房に行くと、先生の知識や教えはもちろん、色んな形で本に関わっている方の本のお話を伺うことも出来る。

例えば……
パッセに使おうと思っている丸山健二全集9巻『月に泣く』をレッスンのついでに持参、糸かがりか先生に確認してもらう。
無事、糸かがりだった!


糸かがりのように見えて、そうでないアジロ綴じの本がとても多い。
この全集も一巻の1が糸かがり、その後アジロ綴じが続いて、9巻だけまた糸かがりになっている。
倒産して今はない版元だが、思い入れの深い一冊だったのかもしれない。

糸かがりにすれば製本代金はすごく跳ね上がる……と先生から伺い、版元の思いと苦しさを想像する。

全集9巻の本をご覧になって、先生が「すごく素敵な装丁ですね」と言ってくださる。

同じレッスンを受けていた書籍デザイナーの方も手にとって装丁に感心してくださる。
そして奥付きをご覧になって、「とても有名な装丁家」と教えてくださる。

さらにこの表紙の装丁に使われている紙はNTラシャ。

色味が多く、百色以上あるので全百巻を予定していた全集それぞれに色の異なるNTラシャを使う予定だったのでは……
NTラシャだとすっとした印象になるから使ったのでは……
と教えてくださる。


そして刊行時「高い」との声が聞こえた全集の価格も、「この値段では採算ギリギリ、ギリギリにするにも厳しい値段だったのでは」とも教えて頂いた。
すごく苦しかったのだな……と今はなき版元の苦労と思いを知る。

本に関わる様々な方からお話を伺って、視野を広げていくことが出来るのは工房参加ならでは……の楽しさだと思う。

なので不器用をかえりみず工房の講座には参加するつもり。
ものすごく器用な人が多いまるみず組で、モタモタと謎の動きをしつつも学んでいこう。


パッセカルトンは「月に泣く」を同時に三冊手がけるつもりだけど。
有名な装丁家さんが手がけた素敵な装丁の本だ。私の手で劣化させてしまわないように……

そのためにもパッセでは避けて通れない花布編み、せっせと練習しよう。

それにしても百色の全集……見てみたかったな。(↓全集刊行本の写真、パンフより)

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さりはま書房徒然日誌2025年10月31日(金)

和紙のお話を聞きに名古屋へ

昨日30日、名古屋にある紙専門店「紙の温度」さん企画のトークを聴きに名古屋へ。

紙の温度技術顧問の宍倉佐敏氏による「和紙に使われた植物繊維」という話だ。

宍倉氏は製紙会社の研究所でレザックやタントという銘柄の紙を開発されたそう。
私はレザックを見返しに使うことが多いため、その紹介に勝手に親しみを感じる。

植物の産地に出かけ採取、みずから紙にしてきた宍倉氏の話を聞くうちに、紙が何とも身近に感じられてきた。

そんな宍倉氏の話から幾つか印象に残った話を以下に。

◆◆紙の起こりは女たちの洗濯(みたいな作業)から◆◆

起源は古代の中国。
絹糸を繭から取るとき繊維屑が出る。
女たちはこの繊維屑を水中で叩きほぐして再利用した。
そのとき籠に残る繊維屑が薄い層になって、乾燥すると繊維の膜になった。
これが「紙」の始まりだそう。
(洗濯機の糸屑フィルターに繊維が集まるのと似ているそう)

紙の起源が女たちの、手仕事から……とは知らなかったし、なんだか嬉しい。

◆◆紙に使われる植物は身近なところに◆◆

紙の材料について、古代に使われていた植物から説明して頂く。
まずは苧麻(ちょま)から。


そんな植物なんて知らない……と思ったが、宍倉氏はにこやかに「駅から紙の温度に来る途中の道のあちこちで苧麻を見ました」


日本に紙が伝わった頃の材料、苧麻が道端でよく目にするものだとは……意外である。


この苧麻で作られた紙は、光明皇后の「五月一日経」とか百万塔陀羅の料紙に見られるそう。

◆◆古代の人はなんだか風流◆◆

古代の紙の材料は苧麻、楮、カジノキ、ヒメコウゾ。

なかでもカジノキは葉が大きく柔毛があるため、毛筆で文字が書け、七夕の短冊にも使われていた、とのこと。


現代のワードで印刷する文字よりも、風情があったのだなあと思う。

◆◆奈良・平安の支配層の写経事業に紙が使われる◆◆

聖徳太子、聖武天皇、光明皇后は写経を奨励して、人心の統一をはかり、平和を願った。

楮が供給できないとき、補助材料として紐や縄に使っていたマユミ、雁皮(ガンピ)、オニシバリが使われた。

支配層の事業が紙の開発、普及につながった時代と知る。比べると現代は……

◆◆時代によって「よい紙」も変わる◆◆

奈良や平安時代、皇室や貴族に紙が使われていた頃、よい紙とは白くて、厚いものとされていた。

でも鎌倉、室町と武士の時代になると、白くなくてもいい、厚くなくてもいい、小さくてもよい、文字が書けて安価であれば良いと紙の概念は大きく変化。

柿色や薄茶色になって色白美人にはならない三椏(ミツマタ)もこの頃から使われるようになる。

この頃に中国から竹の紙も入ってくる。

江戸時代、高価に販売できるため各藩は和紙の製造に励み、経験の乏しい農民に製造を押し付ける。結果、紙質が低下する。

◆◆現代、和紙の材料は世界中から◆◆

外国産の材料で出来た紙を和紙と呼んでいいのか……という話は、別のところで聞いたことがある。

だが栽培できないため生産量が減っている雁皮はフィリピン雁皮のサラゴンが代用されるように、またネパールのロクタも代用されているとのこと。

三椏、オニシバリもネパールのロクタが代わりになるものとして注目されているとのこと。

仕方ないのだろうが、和紙の材料まで外国頼みになっているかと思うと何とも心細い気がする。

(宍倉佐敏氏の著書『和紙の歴史 製法と原材料の変遷』を参考にして書きました。
 和紙の歴史について、とても詳しく、丁寧に、わかりやすく書かれた良書です。おすすめです)

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さりはま書房徒然日誌2025年10月29日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より七月十六日「私は憂いだ」を読む

世一の姉とハワイへ新婚旅行に出かけたストーヴ作りの男。
帰ってきてから胸のうちに広がる憂い。

そんな憂いが語るハワイの様子は新しい切り口で語られながら、やはりハワイが見えてくるところが面白い。

気が付かないだけで、私も同じような疎ましさを感じていたのかもしれない。

成り金の集まりにすぎぬ
   見せかけの経済大国からどっと押し寄せる観光客の重さで
      今にも沈んでしまいそうな火山島は
         ただ暑くて
            ひたすら落ち着きがなく、
               金銭を挟んでの関係があからさま過ぎて
                  帰る間際まで馴染めなかった。

夜になっても放熱を止めぬ海の色は
   うたかた湖の青ではなく
      オオルリの青でもなく、


( 丸山健二『千日の瑠璃 終結7』215ページ)

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