さりはま書房徒然日誌2025年1月15日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十二月十三日「私はペンキだ」を読む

十二月十三日は「私はペンキだ」と、「もしかしたら色褪せた心にも塗れるかもしれない 水性のペンキ」が語る。
寂れた旅館の女将はペンキを手にみずから屋根を塗ろうとする。
以下引用文。女将の目に映る世一をはじめ様々な人々。
ペンキが「色褪せた心にも塗れるかもしれない」と自分を語る言葉にも、「できることなら幸福に限りなく近い色で塗り潰してやりたかった」という言葉にも、丸山先生の優しい心情が感じられてよいなと思う。

そんなかれらを
   私としては
      できることなら幸福に限りなく近い色で塗り潰してやりたかった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』157ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年1月14日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十二月十一日「私は性格だ」を読む

十二月十一日は「私は性格だ」と、放火癖のある少年の「破綻すべくして破綻した そのくせ どこか気高い雰囲気を有する」性格が語る。

以下引用文。そんな少年を見つめる周囲の視線の冷たさ。

そんな彼らの視線の大半は
   明らかに隔離や排除の勧めが込められ
      針の束のごときぎらつきがちりばめられ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』147ページ)

以下引用文。ただし中には少年を肯定する眼差しも。そのうちの一人は丸山先生らしい姿で書かれている。
作家とは、世間から白眼視される存在にも共感して生きる、因業な生なのだなあと思う。

ところが
   私を認め
      私を肯定する眼差しが
         ひとつならまだしもふたつもあって、

長身痩躯の青年やくざと
   唐獅子を想わせる黒い犬を連れた中年の小説家だった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』149ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年1月13日(月)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』より「死ぬまで振り返らないぞ」を読む

「近頃の天候の高圧的な態度」に押され気味だという丸山先生の心境やら、庭の植物たちについて「我が庭の植物たちがこぼす無言の愚痴には、環境に支配されるしかないのだいう、半ば諦め気分やら運命の必然性やらも感じられてしまう」と語る言葉。
そうした言葉の使い方には大きな気候の変化を前にしての心配と同時に、どこか不安を打ち消そうとするユーモアも感じられる。

以下引用文。丸山先生の庭に佇めば、植物たちの霊が見えてくるような、どこか遠い世界を覗くような気がしてくる。

今は亡きチョコレートコスモスの亡霊が呟きました。
「そんな後悔の言葉なんぞおくびにも出さないでくれませんか」

今を盛りと咲き誇っているクルマユリの生き霊がうそぶきました。
「命を失っていない者はけっして後ろを振り返っては行けません」


(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から』67ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年1月12日(日)

蛇腹本のアコーディオン・アルバムに挑戦

今日は飯田橋にある本づくり協会で伊那の手製本工房・美篶堂さんが開催されているワークショップ「蛇腹本のアコーディオン・アルバム」制作講座へ。

用意してくださっている道具の中には、他とは違う道具も幾つかある。道具も少しずつ違うし、やり方もまた少し違う。何でも画一化されている現代にあって、手製本の世界だけはやり方が違って、それぞれの良さがあるように思う。
あちらこちらのワークショップに参加してみたけれど、注意されることもその都度違う。それぞれのこだわりの観点、大切にしていることが違うのだなあと思う。

ちゃんと蛇腹に開くかドキドキするが、無事蛇腹に。高遠の桜を剪定した小枝を美篶堂さんが持ってきて下さり、最後革紐に結える。

↓美篶堂の親方が作った谷川俊太郎さんの詩集。これも蛇腹本。すごくビシッと綺麗に頑丈に作られている本で、蛇腹本の可能性を知る。

この本の成立過程について書いた『本をつくる』

本づくりハウスでは、重度の障がいを持つ青年・木下晃希さんの出版記念原画展を開催。
木下さんの信じる気持ちにあふれた絵に見守られながらのワークショップに感謝!

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さりはま書房徒然日誌2025年1月11日(土)

「遊び紙」「見返し」に該当する英語があった……

以前は珍紛漢紛だった手製本の本だけど、最近、少しは流れが想像出来るようになってきて読むのも楽しい。
手製本の世界は、工房によって道具ややり方も違うところがあって、職人さんの世界なのだなあと思う。

今通っているまるみず組は、先生がとても英語を流暢に話されることもあって、こんなふうに英語で製本用語を言うんだと刺激を受ける。

自分でも合っているかどうかは別にして、気になる製本用語を調べた
以下、私が調べたものを二つだけメモ。

まず「見返し」は“end paper” “end leaf”(ランダムハウス英和辞典)
それから「遊び紙」は”flyleaf” 複数形は”flyleaves”(ランダムハウス英和辞典)

最近、ネットで洋書を取り寄せると、日本の通販のカタログ以下の品質で一冊四千円くらいしてガッカリすることが増えた。
だから「遊び紙」なんて英語があることに驚いた次第。

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さりはま書房徒然日誌2025年1月9日(木)

手製本基礎講座「折丁の多いノートづくり1回目」

まるみず組の手製本講座は、三回かけて折丁の多いノートづくりに入った。

今日はまず菊判636✖️939のアラベールという上質な紙四枚から、一枚につき九枚、合計三十六枚の紙を切り出していく。

大きな紙から切り出していく過程を実践させてくれるのも、まるみず組の良いところだと思う。
でも、すごく綺麗な紙!間違えて切ったらどうしよう……と緊張する。
「後で化粧断ちするからザックリで大丈夫」との励ましの言葉に、ザックリとペーパーナイフで切り始める。


適当に目分量でザックリ切ってしまい、化粧裁のときに小さな紙に合わせたら、どんどん紙が小さくなってしまった。もったいないと思わず後悔。
最後に紙を束ね、切り出したボール紙の表紙を重ね、ノートらしき形にしてプレスする。

それから次回、糸かがりする位置にノコギリでギコギコ切れ目を入れる。
本作りにノコギリが登場するとは!知らなかった!

下の写真を見ても分かるように、天地の片側がデコボコである。一応、定規できちんと測ったつもりなのに、なぜ?

写真のノコギリは目が細かいものと荒いもの。位置に応じて使い分ける。
ノコギリの真ん中にある道具は垂直定規というものらしい。初めてそんな存在を知る。とにかく本は垂直、ピシッとしていることが大事なのだなあと思う。

すでに今日の時点でデコボコしているけど、こういう点をクリアされてきちんとお仕事でされている製本業の方々の凄さを改めて思う。


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さりはま書房徒然日誌2025年1月8日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十二月十日「私は自転車だ」を読む

十二月十日は「私は自転車だ」と「自転車」が語る。
「自転車」には乗ることが出来ない不自由な身体の世一。それでも自転車を見て捉えることが出来ない盲目の少女に、自転車なる存在を伝えようとする。
以下引用文。少女の手が自転車の後輪をまわし、その音に耳を傾ける場面。映画であれば、一瞬で終わる場面かもしれないが、言葉にするとこんなに広がりが生まれるのかと思った。

そこで私は
   少女のために何かしら特別な音を発してやりたいと考え、

まずは
   風によって生み出される波の音と
      波が造る風の音を真似てやり、

それに加えて
   湖底から途切れ途切れに立ち昇ってきては水面で弾ける
      泡の音を巧みに織り交ぜてやった。

ついで
   天魔に魅入られたとしか思えぬ病児の口笛を添えながら
      信じるに足る未来や
         ささやかながらも輝ける希望や
            幸福の予感やらを
               千変万化する波動として
                  少女の異常に発達した聴覚へ
                     強弱をつけながら届けた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』145ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年1月7日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十二月五日「私は木枯らしだ」を読む

十二月五日は「私は木枯らしだ」と、「木枯らし」が語る。

以下引用文。
木枯らしが吹きつけるまほろ町の胡散臭い様子も、そこで暮らす人々のギスギスした感じも、風の無常感も、こんな風に言えばスッと読み飛ばすことなく、頭に情景を浮かべて、何となく物寂しい心地になるものだと思った。

人々を欺く角度で傾斜した地層の上に横たわる
   この田舎町
      まほろ町を今年もまた訪れた私は
覚醒の教訓を込めた一喝を加えるべく
            ぴゅっと吹きつけ、

世知賢い者たちの気配が
   たっぷり残る名もない通りや、

時運に乗ってちっぽけな成功を収めた連中の
   夢のかけらが落ちている路地を、

できるだけ何も見ないようにして
   すっと走り抜けて行く。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』122ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年1月6日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十二月四日「私は灯火だ」を読む

十二月四日は「私は灯火だ」で始まる。
「行き場を失った魂の波に弄ばれて 漫々たるうたかた湖をさまよう 朽ちかけたボート その舳先に掲げられた灯火」が語る。

以下引用文。丸山先生が語る風景は、ときにとても幻想味を帯びることがある。その幻想世界が、どこか他の幻想文学の作家とは違うのはなぜだろうと思う。
丸山先生は、初期の作品はとても現実直視の世界からスタートされた。
丸山先生の場合、現実をとことん突き詰めて眺め書いていくうちに、その向こうに存在するパラレルワールドが見えてきたのだろうか。
大町の自然を冷静に眺めることによって見えてくる、丸山先生ならではのもう一つの幻想世界、その成立を可能にしている筆力が、独自の魅力なのかもしれない。

今宵の乗船客である精霊たちを慰めてやり、

死者の未練をすっぱりと断ち切って
   物質としての存在を諦めさせてやることこそが
      わが本来の務めであり、

そんな私は
   新顔の死者たちに
      うたかた湖の北の岸辺に群生している
         極めて短命な植物の躯を見せ


森や林の奥で
  今まさに無惨な死を遂げた
     禽獣の姿を見せてやる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』119ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2025年1月4日(土)

丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』より「奴隷にならない」を読む

本書は後半の方に、丸山先生らしい、辛口の本音が出ているのかもしれない。「酒を飲むのは人間だけ」の章にしても、その次の「奴隷にならない」にしても、そうだ。
もしかしたら読者の反発を避けるために、本音部分は後半になったのだろうか……
本書は北アルプスの自然やご家族と暮らす心境を綴られた最初の部分から、後半の辛口部分までグラデーションのような色彩のエッセイ集である。

 理想的に思える政治体制であっても、国家とは結局、支配層のために存在するのです。このことは、現実中の現実であり、真理中の真理であって、体裁の違いこそあれ、今の時代も根本は中世の時代となんら変わりはありません。
 特定少数の支配層は、不特定多数の人々に国民の一員であるという偽りの自覚を持たせながら、実に巧妙な手口で奴隷化を進めてきました。これが近代社会の実態です。


(丸山健二『言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から』240ページ)

 今の日本社会を考えるとき、近代の用語を使うよりも、江戸時代の言葉をあてはめて考えた方が、何だかしっくりくることがある。
「政府」じゃなくて「幕府」、「税金」じゃなくて「年貢」……そんな言葉で自分を見つめた方が、幻想が崩れて現実を直視できる気がする。上記引用文にふとそう思った。

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