さりはま書房徒然日誌2024年12月25日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月三十日「私は視力だ」を読む

十一月三十日が「私は視力だ」と始まる。
以下引用文を読んでいると、「見えないものを見 見なくていいものを見てしまう」世一が神秘的にも思えてくる。
また「憂わしい表情の顔を丘の上の家の窓から突き出すとき」という文に、思い描いていた世一とは違う、どこか絵画の中にいる少年に思えてくる……のは「憂わしい」という言葉のせいか、それとも「窓から突き出す」という動作のせいなのだろうか……?

私は視力だ、

見えないものを見
   見なくていいものを見てしまう
      ただ生きるだけでも大儀な
         少年世一に具わった視力だ。

そんな彼が
   憂わしい表情の顔を丘の上の家の窓から突き出すとき
      私はしばしば
         遥か彼方をたどたどしい足取りで独り行く
            もう一人の自分の憐れ深い姿を捉え、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』102ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年12月24日(火)

田中箔押所を見学!

手製本工房まるみず組が企画された田中箔押所見学ツアーに参加、箔押しを見学させて頂く。


田中箔押所は新御徒町にある。付近には皮工房も多く、革製品への箔押しもされている。箔押しの済んだ革製品もあったが、なんとも言えない温もりがある。

この箔押しの機械の前に、田中箔押所の先代社長が座って、丁寧に時間をかけて箔押しを黙々と進めてゆく。
箔押しがこんなに時間と手間がかかるものとは……ビックリする。

↑まず私たち其々が押したい文字の大きさに合わせて、活字を探して拾ってゆく。
こんなにたくさん活字があるとは!ビックリ!


まるみず先生の説明では、かつて新聞を活字から印刷していた時代、新聞は刷る部数が多いので一回で摩滅。印刷が一回終わる都度、文字を溶かしてまた活字を作っていたそうだ。書籍の場合は、活字を紙に押して鉛で型をつくり……だったそうだ。そんな時代があったとは!


パソコンが普及した現在、活字屋さんがどんどん廃業、田中箔押所の近くにあった活字屋さんも廃業したらしい。寂しいことである。

↑活字は一個ずつ作っているので厚みが違うとのこと。でこぼこしていると箔にムラが出来てしまう……ムラが出来ないように紙を一枚ずつ重ね、厚みを均等にしていくそう。

とても大変な、職人さんの勘が必要な技に思える。

↑幾度も幾度も定規で測る。

↑箔の色は何色も豊富にある。金だけでも赤みを帯びた金から純粋な金と色々。

出来上がりを見ると、やはり箔の色によって、同じ金でも印象がだいぶ違う……ことにビックリ。

↑上の金属部分に手を近づけては温度を確認される。箔を押す素材によって温度も異なってくるとのこと。

↑私も「2025」と箔を押して頂く。このノートは、まるみず組に入る前に私がつくった角背上製本のノート。角が潰れていたり、端がダブダブしていたり見苦しい。


でも箔はムラなく均等にシャープに入っている。さすが!
家にある箔押しされている本と比べると、田中箔押所の箔はクリアでシャープな気がした。

このノートはSOLIDAの棚に非売品で置く予定なので、お時間のある時に90代の箔押し職人の技をご覧下さい。
長い年月をかけて積み上げた職人さんの技を側で見学させて下さり、素敵な箔押しをして下さった田中箔押所さま、得難い体験ツアーを企画して下さいました手製本工房まるみず組に心から感謝!

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さりはま書房徒然日誌2024年12月23日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月二十六日「私は報復だ」を読む

十一月二十六日は「私は報復だ」で始まる。三人組の男達が大男を殺して森に埋める……そんな「報復」が語る。

以下引用文。
死体を埋めながら蹴りつける……場の近くを通り過ぎる世一の静けさはなぜなのだろうとも思う。
「死者の骨が折れる音」というおぞましさを打ち消す「青尽くめの少年」という言葉の清々しさ。

「徘徊の名人」というこの世のものではない感じ。
「危ない風土を照らす皓月の真下」という聖と俗をイメージさせる言葉。
そうしたものから世一の不思議な存在が喚起されるのかもしれない。

死者の骨が折れる音を聞いたのは
   当事者たちのほかには
      おそらく私などとは生涯に亘って無縁であろう
         青尽くめの少年で、

足音はほとんど立てず
   闇に紛れて徘徊する名人としての彼は
      暴力の世界を面白がって生きる
         非道な連中に気づかれることなく
            危ない風土を照らす皓月の真下を
               密やかによぎって行った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』89ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年12月22日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月二十四日「私は荒れ地だ」を読む

十一月二十四日は「私は荒れ地だ」で始まる。
『雑草一本とてまともに育てられるかどうかもわからぬ」と自ら語る荒れ地が、それでも耕すことを諦めない老いた農夫や世一を見つめる。


以下引用文。
諦めずに時間をかけてせっせと面倒を見てくれる老農夫。一方、荒地は農夫の献身を疎ましく思い、「彼の死を心の底から願っている自分」に気がつく。こんな身勝手さも、荒れ地だからあまり嫌悪感なく読めてしまう。もし人間なら……そこでストップしてしまうかも。


「死ぬことを知らぬ」も、「生きることしか知らぬ」も、どちらも同じことなのかもしれないが、両者の足音は違った響きで聞こえてくる。
顔つきとか服装とかではなく、足音に、農夫や世一の存在が滲む不思議さを思う。

ほどなく
   死ぬことを知らぬかのような頑健な農夫の足音が遠のき、

代わりに
   ともあれ生きることしか知らぬ少年の
      か細いと言えばか細い
         溌剌としていると思えばそうも聞こえる
            摩訶不思議な足音がこっちへ迫ってくる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』81ページ)

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さりはま書徒然日誌2024年12月21日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月二十三日「私は気体だ」を読む

十一月二十三日は「私は気体だ」と、湖で坐禅を組んでいる修行僧と湖の底に沈む観音像の「難解にして執拗なやり取りを運ぶ なんとも頼りない気体」が語る。

以下引用文。修行僧と観音像の間野やり取りを運ぶ気体という目に見える筈のないものが、一瞬心に浮かんでくる一文のような気がする。
心に浮かんでくる……というよりも、「破滅の色の鱗」とか書かれると思わずどんな色なんだろう……その小魚をかき分けるとはどんな気体なんだろう……と考えてみたくなる。
わかるように書かれるよりも、思わず立ちどまって考えたくなる不思議さの残る文の方が、イメージしたくなる気が。

そして
   破滅の色の鱗に覆われた小魚の群れをかき分けながら沈んでゆき、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』75ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年12月19日(金)

製本基礎講座で「折本」と「大福帳」にトライする

まるみず組の製本講座で「折本」と「大福帳」をつくった。
まず講座前の製本ドリルという復習で、縦目の紙、横目の紙、それぞれから切り出すのに最適な形を考える……簡単な筈のドリルなのに、またここで一問つまずく。


そのドリルでの確認をもとに、大きな全紙サイズの和紙から紙をペーパーナイフで切り出してゆく。

さらにサイズを揃えるために一枚一枚化粧裁ちをして折って、蛇腹になるように糊をつけ……。
最後の確認、ドキドキ、蛇腹になるだろうか……?
粗忽者の私、やはり一箇所糊を忘れていた。
慌てて糊を塗って、とりあえず完成。

またザクザク和紙を全紙サイズから切って、ざっくり感を残したまま大福帳をつくる。
大福帳とは、江戸時代の商家の売掛帳のこと。
横向きに使うらしいけれど、私が達筆ならこのまま短歌を墨字で書くのに……と思い、金釘文字の己を残念に思う。

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さりはま書房徒然日誌2024年12月18日(水)

東秩父和紙の里で紙漉き体験

手製本工房まるみず組企画の東秩父和紙の里紙漉き体験ツアーに参加してきた。
埼玉の方から「埼玉でも和紙を作っているなんて知らなかった」と驚かれたが、なんでも東秩父村の細川和紙はユネスコ無形文化遺産に登録されているそうである。
到着後まず埼玉県伝統工芸士の女性が楮(こうぞ)畑に案内してくださる。

↓楮は生育が旺盛で、これからの時期に刈り取るそうである。
刈り取った楮の皮を剥き、内側の白い皮だけを使うらしい。

畑から工房へ。剥ぎ取った楮の皮は、工房外の水槽につけた後、工房内の釜でアルカリ薬品で四時間煮て、また外の水槽で洗うとのこと。

↓井戸水でチリ(筋や汚れ)取り。とても大変そうな作業である。手前はチリ(黒い点)があるダメなもの。

チリが混ざってしまうと和紙に黒い点ができて損紙(使えない紙)になってしまう。

↓チリの名残の黒点。これだけでもダメなのだそうである。

↓チリが混ざったため使い物にならず損紙になった紙の山

↓チリを取り除いて、薙刀ビーターで楮を切り裂いたり。ちなみにこうした道具は地元の鉄工所に作成してもらっているらしい。

↓棒で楮を叩かせてもらった。「シャンプーした後の犬の毛みたい」と言われている方がいたが、たしかにそんな感触である。

↓こうして手間暇かけて楮やトロロアオイを混ぜ、私たちが思い浮かべる紙漉きの場面に。

ただし、こうした紙漉きに使うスアミ(紙をすくう御簾みたいなもの)を支える職人や物が非常に少なくなってきている現状らしい。
スアミに使われるヒゴを作るヒゴ職人もほとんどいなくなり、ヒゴをつなぐ絹糸も手に入らなくなってきているとか。


↓スアミ

手漉き和紙体験施設に移動して、私もトライ。薄いところ厚いところとムラが出来て難しい。

↑東秩父和紙の里にある手漉き和紙農家を移築した建物。


和紙の優しい風合いの背後には、職人さんたちが手間隙かけての丁寧な作業があると知った。それにも関わらず、技術を支える様々な職人さんたちが消滅しかけていることも。

時間があればぜひ東秩父和紙の里を訪れ、そうした世界を見て頂けたらと思う。
蕎麦打ち体験もできるし、蕎麦屋のお蕎麦もとても美味しい。素敵な和紙製品も販売、農産物販売所(水曜日定休)もありますよ。


↓道の駅で食べた蕎麦。蕎麦粉の風味が豊かでとても美味しかった。


知らない世界を見せてくれたまるみず組、東秩父和紙の里に感謝しつつ帰途につく。

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さりはま書房徒然日誌2024年12月17日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月二十日「私は仮面だ」を読む

十一月二十日は「私は仮面だ」で始まる。夢想家の域に達しつつある青年は、湖畔でひとり醜悪をテーマに踊る。その踊りのために作った仮面が語る。
仮面は青年に「刹那の夢さえも与てやることができず」、ついには「おまえはおまえでしかない」と言い放つ。
以下引用文。仮面をもらった世一の「おれはおれでいいや」という言葉に丸山先生らしい生き方の理想を見る。
最後の「〈醜悪〉の一から十までが 粉々に砕け散った。」という箇所、「一から十までが」という風変わりでしつこい表現も、「粉々に砕け散った」という表現も心に残る。
ふだん仮面をつけて生きている自分を感じ、その仮面を壊してみたい……そんな己の願望にふと気がつく。

昼夜のなかに残された少年は
   しばし私を眺め
      被ろうとして寸前で止め
         「おれはおれでいいや」と
             聞き違いでなければそんな意味の言葉を漏らし、

渾身の力を込めて
   私を松の根元に叩きつけるや

      〈醜悪〉の一から十までが
           粉々に砕け散った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』65ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年12月15日(日)

フランス装に再挑戦

飯田橋にある美篶堂さんの本づくり協会でフランス装の製本講座を受けてきた。


たしか秋にもやはりこの場所でフランス装の製本講座を受けた。これで二度目である。
製本とは普段やらないせいか、それとも歳のせいかすぐ忘れてしまう。

また少しは余裕ができるのだろうか、二度めには色々新しい発見もある。
手製本の工房は、工房によって使う道具も少しずつ違って、手順も少し違ったりもする……だから金太郎飴のように「何でも同じ化」が進んでいる現代社会にあって、他にはあまりない面白さがある気もする。
(用意してくださった道具も、他とは少し違っていたりして興味深い)


使う道具とか手順には少し違いはあっても、大切にされているマインドは同じ気がする。
先日どなたかが言われていた「手製本は急ぐとたいてい失敗する」という言葉は、現代社会と逆行するものかもしれない。
でもそんな丁寧な時間がどの手製本の工房にも確かに流れ、そこで本をつくる人の雰囲気や心をつくっているように思う。
ひとときでもそうした空気を吸い込みながら本を作っていると、出来はともかくとても心穏やかになる……のが私にとって手製本の魅力の一つでもある。
そうした時間と場所を提供してくださっているすべての方々に感謝!


(本日のフランス装。きちんと折る難しさを感じましたでも並装にカバーをかけたフランス装は、自分の文を紙にするなら一番作りやすいかなあ、きちんと折れなくても。)

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さりはま書房徒然日誌2024年12月14日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結5』より十一月十九日「私は耳だ」を読む

十一月十九日は「私は耳だ」と、世一の友達である盲目の少女を支える鋭い耳が語る。
「耳」はリゾート開発計画に浮かれ騒ぐ人々の声をとらえ、その喧騒とは対照的な世一がたてる物音もとらえる。
以下引用文。
少女の耳がとらえる世一の気配は、どこか妖精じみた存在で、開発だの金儲けとは無縁である。そしてどこか温かさがあり、痛みを共感してくれる存在である。
こうした在り方こそ、丸山先生が人間に求めるものなのではないだろうか?

この私が聞きたいのは
   その手の音声ではなく、

見掛けはともあれ
   優しい心根の少年世一のゆったりとした足音であり
      彼が没我の境に入ったときに吹き鳴らす口笛であり、

不規則でも好ましい息遣いであり
   体内を経巡る血液やリンパ液の音であり、

ときとしてきしきしと軋む
   胸の痛みの音である。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結5』61ページ)

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