さりはま書房徒然日誌2025年10月7日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より六月二十八日「私は生気だ」を読む

これから海に向かおうとしている五人の老人の生気。

その様子が、身も蓋もないと言うべきか、ユーモラスというべきか、そんな両方の視点で語られている。

この二つを併せ持って書くのは丸山先生らしい気がする。

力強さという点においては
   学校の行き帰りに騒ぐ学童らの声をはるかに上回り、

天皇を神とする国家に士気を発揚されていた当時の
   かれら自身の空元気を凌ぎ、

なお且つ
   花札賭博で熱くなった客の興奮をも超えており、

そんな私のあまりの勢いに
   普段は年寄り連中を舐めきっている野良犬も負けて通り、


田舎道には敵さぬ大型の乗用車を駆って通りかかる
   やくざ者ですら圧倒されるほどの勢いだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』143ページ)

これから旅に出るかれらはもはや
   息子に難題を吹っ掛けたり
      嫁にあれこれ煩く言ったりする
         一家の嫌われ者などではなく、

神仏なんぞの掌中に帰して
   すっかり身動きが取れなくなってしまった
      救いがたい愚か者などではない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』144ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年10月6日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より六月二十七日「私は目先の欲だ」を読む

まほろ町の小さな図書館に勤める世一の姉。
その姉をつかまえ、リゾート開発計画反対派の元大学教授が頼む。

世一一家が住む丘を売り払うのはやめるように、父親に説得してくれないかと。

姉は、私も売り払いたいと思う……と断ると、大学教授はこう語る。

大学教授に言い返す世一の姉の鋭さ。
「わが同士や仲間たちが 生き生きと飛び跳ねていた」という目先の欲が、やけに美しくユーモラスに感じられてくる不思議さを思う。

私に取り憑かれていると
   そう決めつけられた女は
      人は皆そうやって生きているのだと切り返し、

「先生だって老後の生き甲斐のためにそうしているだけで
    本音としては田舎町の未来などどうだっていいんでしょ」と言うや
       男はぴたりと口を閉ざしてしまい、

彼がとぼとぼ帰って行く湖岸野処々方々では
   薫る風や光る水といっしょに
      わが同士や仲間たちが
         生き生きと飛び跳ねていた。


( 丸山健二『千日の瑠璃 終結7』141ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年10月5日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より六月二十五日「私は怪雨だ」を読む

どこかSFチックな、怪奇めいたところがある箇所である……

私は怪雨だ、

人々の不安やら虫の知らせを核にして
   うつせみ山の麓に扇状に広がる新開地を容赦なく叩く
      色付きの怪雨だ。


私は野路に咲き乱れるスミレの花を赤く染め
   高い杉によじ登って枝打ち作業に精を出している男の顔面も
      やはり同じ色に染め、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』130ページ)

老いた樵は「こんな雨は初めてだ 地球が血を噴いている」と言って立ち去る。
そしてそんな言葉から、壊されてゆく環境へ丸山先生が警鐘を鳴らしているようにも思える。

樵と働いていた若者は血の色に塗れながら踊る。
だが怪雨はそんな若者にしらける。


やがて青づくめの世一が近寄ってくると、本来の色に戻ってゆく。
弱いはずの世一が、自然の姿を本来のものに戻す……という結末は、考えさせるものがある。

私の方は逆に白け
青色を好む少年の出現を契機に
      本来の無色透明に戻っていった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』133ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年10月3日

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より六月二十四日「私は悟りだ」を読む

「はみ出し者の若い修行僧が得たちっぽけな悟り」が語る。

「悟り」は橋の下で寝る物乞いと托鉢をする修行僧の間に、どんな違いがあるのか問い詰める。

返答に窮した僧侶は
   自信のない視線をあやまち川へと転じて
      ため息を二度三度と漏らし、

そこで私はなおも迫り
   「おまえは迷っていて
       この男は迷っていないという
          ただそれだけの差ではないか」と
             そう畳みこんでやった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』128ページ)

悟りのおかげで修行僧は、物乞いと紛らわしい托鉢をやめ、労働によって物乞いと一線を引こうとする。

托鉢への厳しい表現に、一貫して宗教の生臭い面を問い続けてきた丸山先生の視線を感じる。

今でも時折駅前で見かける托鉢の僧。いったいどんな心持ちで、何を求めて托鉢をしているのだろうとも思う。

つまり彼は
   その足で貸しボート屋へと出向き、

私から最も遠くて最も近い存在の
   難病を背負わされた少年の相手をしていたおやじは
      僧侶の申し出を快く引き受けて
         「そいつはいい心掛けだ」と言い、

三人は肌色の月を愛でながら
   大皿に山盛りにされた草餅を食べ始めた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』129ページ)

「私から最も遠くて最も近い存在」と世一を表現した言葉、色々考えさせられる言葉である。

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さりはま書房徒然日誌2025年10月2日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より六月二十三日「私は跳躍だ」を読む

うたかた湖の、まほろ町の主でもある巨鯉が披露した「跳躍」が語る。

丸山作品の主人公たちは、一見救いがないような弱者なのに、丸山先生が語るその姿には希望が、未来があふれている。

そんな文に読者は救われ、己の有り様を考え直すのかもしれない。

私を目撃したのは
   少年世一と盲目の少女ふたり
      それに
         四六時中少女の面倒を見てやっている白い犬だけで、

雨やみのあいだに遊びにきたかれらは
   沖へ向かって
      未来へ向かって
         突き出ているぼろぼろの桟橋を
            慎重な足取りで渡り、

その突端に

   肩を並べて佇んだ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』122ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年9月27日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より六月二十日「私は三叉路だ」を読む

まほろ町の外れで「通りがかる者にいちいち詰問してやろうと 手ぐすね引いて待ち構える」三叉路が語る。

丸山先生の人生への想い、葛藤、生き方が伝わってくるような文が散りばめられている。

三叉路が通りがかる人に浴びせる質問はただ一言「幸福か?」

頷く者には

実際には
   ただ生きているから

      仕方なく生きつづけているのではないのかと畳みこんでやり、

そんな相手の生の在り方の非を咎め
   いつ頃から
      なぜそうなってしまったのかと問い詰め、

その場逃れの言い訳もできず
   茫然と立ち尽くしている者に対して
      「右にするのか
          左にするのか?」と
             そう迫ってやった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』112ページ)

最後のところで、どうやら丸山先生らしい「熊の仔にそっくりなむく犬を連れた男」が出てきて、三叉路の問いに答えてこう呟く。

少し離れたところで観察しながら書き続けている丸山先生らしい答えだなあと思う。

滅多なことは言えないと呟いてから
   右も左も選ばず
      さりとて引き返すわけでもなく、

生きているだけでも大したことだと感服せざるを得ない
   かの少年世一の後を追って
      かたわらに広がる薮の奥へと姿を消した。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』113ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年9月24日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より六月十九日「私は風鈴だ」を読む

世一の姉の婚約者・ストーブ作りの職人が収入を得るために始めた風鈴づくり。
評判はよくどんどん売れてゆく。
だが、ある時からパタっと売れなくなる。
その事情を分析するストーブ作りの男の目、すなわち丸山先生の目。
人間の心情の嫌なところをついているようだが、真実なのかもしれない。

だが世一のことを世間が知ると、また風鈴は売れるようになる。
人間とは何とも嫌な存在だと思う。

ほどなくして製作者は
   事情をすっかり理解し、

要するに
   客が気に入らなかったのは
      私そのものではなく
         私が呼びこむささやかな収入で、

あるいは
   私がもたらした世間並みの幸福のせいかもしれず、

これまで不幸の影を宿していた者が
   伸びる売り上げのせいで笑顔が戻ったことを
      単なる凡人の証しと受け止め、

そして
   嫉妬したのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』108ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年9月22日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より六月十八日「私は弁当だ」を読む

手作りの弁当を貪る土木作業員。
その嬉しそうな様子を観察しながらも、丸山先生の視線はシビアである。

私はそんなかれらに
   酷使されて搾取されていることを束の間忘れさせ、


ついでに
   自慢の肉体が思い通りにならなくなる日が必ずや訪れる事実を

      現実から切り離し、

果ては
   死の宿命から遠ざけてやる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』102ページ)

ひとりものの作業員がパンを食べていると、仲間は早く結婚すればいいと勧める。

そう言われた独身青年の抱えるネガティブ感、虚無感。
どんな人の心にも巣食うこうした感情を見つける丸山先生。

そうした視点に自分と心分つ存在がいることに気がつき、救われる思いをする読者は少ないかもしれないが、確実にいるのだと思う。

自分はもう何も要らない
   自己自身ですら要らないくらいだから
      連れ合いなどまったく無用だ、


おのが命も要らなければ
   この世も要らず
      当然あの世も要らない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』105ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年9月21日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より六月十七日「私は伐採だ」を読む

「森を森でなくし 山を山でなくし まほろ町をまほろ町で無くしてしまう それこそ手加減なしの大規模に及ぶ」伐採が語る。

丸山先生は「千日の瑠璃」を最初に刊行した1992年に、いち早く木をどんどん伐採してゆく人間の傲慢を見ていたのだなあと思う。

そんな伐採に立ち向かっていくのは、不自由な身体の世一。

弱い者が真実を見る目のひたむきさ。
破れても立ち向かう気概。
そんな理想を丸山先生は世一に見ているのではないだろうか。

そんなきょう
   もし木に生まれついていたならば
      間引かれて当然の
         鳥の気配を色濃く漂わせた少年が
            事もあろうに素手で私に立ち向かい、


しかし
   作業員にたちまち組み伏せられて
      現場からあっさりつまみ出された。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』104ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年9月18日(木)

手製本基礎講座48回『手製本基礎テスト・卒業作品講評会』

昨年10月から毎週一回通ってきた手製本基礎講座もいよいよ最終回の48回を迎えた。

まずは手製本基礎テスト。私の年齢になって受けるテストは中々しんどいし、緊張する。

普段から凡ミスの塊みたいな私を見守る先生は、もっと心配そうな顔をされているような気が。

でも何とか合格点。

いよいよ作品講評会。
昔の本の改装本を出された方がいたが、昔の活版文字の美しさときたら……。

感心していたら、先生が十年ちょっと前まで板橋にあった活版印刷の会社、内外文字印刷(今は廃業)が活版印刷を手がけた手製本の歌集を見せてくださる。

活版印刷がとても美しい……

文字数の少ない英語圏は活版印刷がまだ芸術分野では盛んだということ。羨ましい。

俳句くらいなら活字を集めたらDIYで出来そうな気もするが、私は金属アレルギーの傾向があるので躊躇してしまう。


その他、先生から本文に入るまでのムードを高める空白の白いページ4ページの大切さ、本文のあとの余韻をひきずる空白の4ページ、いわゆるギャルド・ブランシュの大切さを教えて頂く。


白いページの後は章題を入れたりして、とにかくギュウギュウに詰め込まない大切さを教えて頂く。

コストと利益を重視しなくてはいけない商業出版には欠けている視点のように思える。でも大切な視点だと思う。


前後の四ページは忘れたと思うが、今回、1ページに一首配置するという手製本ならではの贅沢さを私も味わった。

他所に頼んだら絶対味わえないこの贅沢、1ページ一首だと余白のおかげで歌が違って見えてくる。

器用な人なら、手製本のテキストを見ながら作れば、DIYで1ページ一首の歌集ができる筈。トライする価値があると思う。

まるみずの講座の良いところ……
不器用で、呑み込みも悪く、凡ミスの多い私が、こうして本らしく見えるものを一人で作れるようになった……だけで、まるみずの講座が優れているのは分かると思う。


それはなぜか?

先生が「きちんと教えたら、いい加減な人はこないと思ってカリキュラムを一生懸命考えた」というようなことを言われていた。

確かにまるみずのカリキュラムは、製本という非日常的な作業が身につくように、パターンを変え、難易度も少しずつアップして、飽きずに繰り返し反復が出来る優れものだと思う。

また毎回、とても丁寧に作られた手順説明のプリントが用意されているのも良い。
家で宿題をしたり、一人で作るときに、このプリントにとても助けられた。

ちなみにこのプリントは図解入りである。図解と説明の文を混ぜてプリントを作成する労力は大変なものがあると思う。

さらに途中から講座の最初に製本計算ドリルがスタート。初めのうちは何が何だか分からなかったが、だんだん慣れてきた。
ドリルがないと、自分では計算なんて面倒なことはしない。

そして宿題も途中から始まった。思うようにならない宿題を提出しては、先生に助言を頂いたのも、とても勉強になった。



まるみずで学んだのは手製本のことだけではない。
先生が企画してくれる見学会のおかげで、和紙職人、箔押し職人、製本職人の丁寧で、細やかな作業が本を作ってくれていることを知った。


でも奥付を見ても、本を形にしてくれる製本会社まで記載してくれている出版社はとても少ない。
それでも製本会社の人たちは難しい注文を丁寧にこなしていっている。

そんな姿に学ぶことが多かったように思う。
色々教えてくれた まるみず組に感謝。
製本の世界は深い。これからも まるみず組で学んでいきたい。


(文字ばかりだと疲れるので、先日のマーブリング講座で作ったマーブリングの写真を入れた)

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