丸山健二『千日の瑠璃 終結7』より八月二十三日「私はきょうだ」を読む
「きのうと寸分変わらぬ おそらくあしたもだいたい同じだろう 少年世一が迎えつづけるきょうだ」が語る。
「きのう」「あした」「きょう」と平仮名にすると、見えない時の流れという感じが強くなる気がする。
以下引用文。普通に書いたら「世一は遠回りをしました。地蔵に気がついて蹴りました」という文になるのだろう。
でも、こう書くことで世一の無邪気さ、浮世離れした強さ、微笑ましさが出てくるような気がする。
私を引き連れた世一は
そっちへ行くと遠道になるのを百も承知で進み、
おめでたい顔をして路傍に立っている地蔵に
コブラツイストの荒技を仕掛け、
(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』367ページ)
以下引用文。丸山先生らしき怪しげな男もまいてしまう世一のどこか不思議さ。
それから世一は
自分を執拗に付け回すサングラスの男を
昼なお暗い森へ誘いこんで撒いてしまい、
(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』368ページ)
以下引用文。世一の一日を語ったあとの最後の文。
この文で「では私は?」と考える旅へ出てしまい、頁をそこで閉じてしまう。
こうして私は
果たすべき課題などひとつもない毎日と
飽きもせずに付き合っている。
(丸山健二『千日の瑠璃 終結7』369ページ)