丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む
ー戦後の日本社会を糾弾する言葉は厳しくも、どこか抒情性があるー
戦争の間、眠りについていた高原・巡りが原が覚醒してゆけば、吹き渡る風がこの国の戦後を語りかける。
手厳しい言葉ではあるけれど、人間を超越した風や高原が語れば、まさに真実と素直に耳を傾けたくなる。
同時に戦後の社会を糾弾しながら、やはり風だもの、高原だもの、語る言葉は決してプロパガンダにならず、権威の象徴を乗せた列車も「はるか遠くできらめく玻璃の海に沿った線路をがたごと走って行き」「すっとぼけた音色の汽笛ときたら」とどこか抒情性がある。
非難しつつもその言葉には美しさがある……点も、丸山文学の魅力の一つと思う。
ただ、その非難に心を重ねられる人が圧倒的に少ないのが現状だろうか……それでも声をあげ続ける丸山文学を読んでいきたいと思う。
さまざまな方向からさまざまな風が「巡りが原」を通過するたびに
敗戦によって弱体化されたこの国のありさまが
長い眠りから目覚めた私のなかでどんどんあきらかになってゆく
時折しも
恥も外聞もない命乞いが功を奏してからくも処刑を免れ
その感謝のしるしとして
全国津々浦々にお詫びの行脚に赴く天皇を乗せた特別仕立ての列車が
菊の紋という威光の残渣を象徴してやまぬ白い蒸気と
行い澄ました救済を装う黒い煙を懸命に吐き散らし
人間宣言をした後もいまだ現人神としての影響を色濃く投げかけながら
はるか遠くできらめく玻璃の海に沿った線路をがたごとと走って行き
また
すっとぼけた音色の汽笛ときたら
どう頑張ったところで困惑をおぼえずにはいられぬ
ほとんど破滅的な惑溺に根ざした響きを有し
所詮はたんなる空語にすぎない
口先だけの謝辞を端的に表している
しかし
依然として皇室は民望をうしなっておらず
帝国主義によって精神が去勢されたままの国民は
自分たちの血を無駄に流させたばかりか
魂そのものまでをも足蹴にしたにもかかわらず
いまだ罰せられることもなく存続する天皇にたいし
人間を超越した無垢なる対象とみなして
過多なる敬愛の眼差しを投げ
それだけにとどまらず
心をそっくり統握されてもかまわぬ相手というほどの入れ込みようで
手足をもがれた傷痍軍人までもがなにがしかの尊敬をはらっているらしいのだ
それが証拠に
人心の混乱は最小限におさえられ
天皇制の是非についてとことん突きつめて論じられることもなく
地球規模の巨悪にたいして由々しい非難を浴びせることもなく
取り返しのつかぬ大罪を犯した張本人をあっさりと赦し
新時代に咲く復活の花という解釈でふたたび認容され
ゆえにどうにかして再生を果たした《朕》は
無邪気に過ぎるどころの騒ぎではない
孤独で冷たい自由よりも圧政下の不自由に温もりと郷愁を感じてやまぬ
そんな幼児以下の愚民にたいし
あっけらかんと戦時中の労をねぎらい
勿体ぶった言い回しで感謝の意を表し
通り一遍の励ましの言葉を掛け
少しも説明になっていない言い訳でもって責任の所在についてお茶を濁すのだ
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」128頁〜131頁)