丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」下巻を少し読む
ー自然の美と戦争ー
以下引用文は、巡りが原の風景を、その上を進んでゆく牛、鳥、盲人を語っている。語り手は巡りが原。
句点のない文から、「踊る陽炎」「草の海」「綾織模様」「謎絵」「魔術的風景」と巡りが原の自然を語る言葉から、巡りが原の自然が美しく、草が揺れるように脳裏に無限に広がってゆく。
言葉の魔力を感じる箇所である。
そして
踊る陽炎と草の海とが目にもあざやかな綾織紋様を描きだす
謎絵のごとき魔術的風景をかき分けていくらも行かないうちに
牛と鳥を引き連れての盲人の旅という
まったくもって荒唐無稽な組み合わせによる純粋な体験がたちまち発酵状態にたっし
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」150頁)
「トリカブトの花が咲く頃」に限らず、丸山文学は片方の手で自然の美しさを書き、もう片方の手で戦争の悲惨さや矛盾を、終わった後に帰還してきた兵士や戦災孤児、平然と居座る者たちを通して書いている。
この二つの対立する世界を追いかける視点と文に魅力を感じる。
詩のような文体に移行してから、このテーマがさらに強烈になっていったのではないだろうか。
それなのにテーマの重さゆえか、文体ゆえか、段々読む人が少なくなっていったことは残念である。
彼は紛れもなく戦争そのものの犠牲者であり
私は戦争の歴史を長いことくぐりぬけられたことによる犠牲者であり
両者は
たんに時代の表皮が変わったにすぎぬ時の流れに翻弄されるばかりの
いつ沈むかわかったものではない木の葉の舟に乗せられて激流を下る蟻のごとき存在なのだ
戦争!
ああ
なんたる愚行!
戦争!
ああ
なんたる悲劇!
戦争!
ああ
なんたる徒労!
戦争!
ああ
なんたる常習!
(丸山健二「トリカブトの花が咲く頃」166頁)
丸山健二最後の長編「風死す」一巻を少し再読する
ー「風死す」を楽しむには……私の場合ー
丸山先生の最後の長編小説「風死す」を購入された方々と話をすると、中々読み進めることができないでいると言われる方が多い。
読むそばからストーリーを忘れてゆく私が、とりあえず「風死す」全巻を読破したのは何故だろうと不思議な気がしている。
もしかしたら、すぐにストーリーを忘れていくキャパシティの小さな脳ゆえに読了したのかもしれない。
丸山先生は「文体について教えてくれる人は誰もいなかった」というようなことを言われていたと思う。
作品ごとに一人で文体を変え、「風死す」の文体に到達した丸山先生。
そんな丸山先生の文章についての考えと、歌人・福島泰樹先生の教えはぴったり重なることが多くて驚く。
短歌のことをよく知らない私が言うのもなんだが、丸山先生は文体を極めようと努力されるうち、短歌的発想とオーバーラップするところもある文体に近づいたのでは……?
日本語の文体を極めようとすれば、知らず知らずのうちに短歌の考えと重なってくるのでは?……とも思う。
丸山先生は短歌的発想で文体にこだわりながら、この長大な作品「風死す」を書いたのではないだろうか。
丸山先生は「風死す」を記憶の流れと言い、福島先生は「短歌は追憶再生装置」であると言い……。
以下の福島泰樹「自伝風 私の短歌の作り方」で示されている福島先生の考えは、短歌だけではなく「風死す」の世界を楽しむときの鍵になるような気がしている。
人体とはまさに、時間という万巻のフィルムを内蔵した記憶再生装置にほかならず、短歌の韻律とは、その集積した一刹那を摘出し、一瞬のうちに現像させてみせる追想再生装置にほかならない。現在もまた刻々の記憶のうちに、溶解され闇に消えてゆくのである。
(福島泰樹「自伝風 私の短歌のつくり方」246頁)
「風死す」の本文に入る前の文にも、「風死す」で記憶の流れを追いかけていく……という丸山先生の思いが、爽快に語られている気がした。
とうとう生の末期を迎えてもなお
不幸にして意識がしっかり保たれているとき
さまざまな想念やら体験やらが
なんの脈略もないまま
しかも生々しく脳裏に蘇り
だがそれは
人生の一部でありながら
その全体も象徴し
(丸山健二「風死す」前書きより)
「風死す」には約35頁おきごとに、菱形に文字が配置された頁がある。
以下引用箇所もそうした菱形に文字を配置したものである。ただし本文は縦書きである。
たしか丸山先生はスペインの詩集でこの形を見かけ、「目」のようと言われていたか、それとも「窓」のようと言われていたか明確に覚えていないが、興味を持たれたらしい。
形はともかく、以下引用文を音読してみれば、80歳になろうとする丸山先生の追想が、そのまま聞こえてくるような文である。
さらにこうしてじっと見つめていると、「流」「生」「死」「影」「美」という文字が浮かび上がり、「俺たちは丸山文学の大事なテーマ!」と叫んでいるようでもある。
あと丸山先生がこだわる神秘の数字、素数で文を引き締めている気がする。
引用箇所はほとんどの箇所の文字数が素数。
ただし死と光の箇所は素数でない、乱調だからだろうか?
素数で文に律を持たせようとするところも、素数の文学である短歌と重なる。
今
思うに
流れても流
れなくても 生
は生でしかなく 死
は死でしかなかった 影
が薄まる瞬間は ただもう美
しく 光が強まる刹那は ひたす
ら切なかった
(丸山健二「風死す」)
この菱形に納められた散文の後には、一語の命令形がきて、斜め下りの文が続いてゆく。
以下引用箇所も、今の丸山先生はこういう心境なのだろうかとも思った。
すでにしてこの世に住んでいない人々の まだまだおのれの内部に掟を有する
不特定多数の霊と共に手に手を携えて 炎天下の扇状地を横滑りしてゆく
(丸山健二「風死す」より)
あと以下は、ほぼ「五、七、七」になっているから、「五、七」を上に付け加えたら短歌になるかな……と考えるうちに、ストーリーを完全に忘れ楽しむ。私の場合。
さらさらと たださらさらと吹き渡って
(丸山健二「風死す」より)
「風死す」は丸山先生になった気分で音読してもよし、
クロスワードをするみたいに文字をじっと見つめてもよし、
素数を見つけるもよし、
丸山先生の文は素敵な五七調になっている箇所も多いから五七探検して短歌にしちゃうのもよし……
とにかくストーリーを忘れ、文が内包する一瞬一瞬を色々楽しんでしまえばいいのではないかという気がする。
(「風死す」写真はいぬわし書房のサイトより使用しました)