丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻を少し読む
ー丸山文学のドッペルゲンガーの面白さとは?ー
引用箇所で、主人公は自分のことを軽蔑しているドッペルゲンガーを仔細に観察している。
それが他のドッペルゲンガー文学にはない、丸山先生ならではの面白さである。
だいたいドッペルゲンガーが出てくる小説は、「ある日、自分のドッペルゲンガーを見た。しばらくして死んでしまった」というワンパターンが多い気がする。
怖がらせる存在に過ぎない多くのドッペルゲンガーと比べ、丸山文学では実に細かく観察している。
それは丸山先生が量子力学に基づいた多元宇宙というものを確信しているからだろうか?
『現前すると同時に不在でもある畏友」というドッペルゲンガーの捉え方はいかにも丸山先生らしく、恐れずにもう一人の自分と対峙するところに丸山文学のドッペルゲンガーの面白さがある気がする。
やむなく、
所詮はおれの複製のくせに
現在することを盾に取って
抗弁らしき言葉をずらりと並べてみせ、
それでいて、
まさしくオリジナルそのものであるこのおれのことを
自分とは相容れない
はなはだ激しやすい性質の愚者と一方的に決めつけたらしく
敬遠を超えた嫌悪の素振りをあからさまに示し、
併せて、
完全に疎通を欠いてしまったことによる
痛々しいまでの自覚がほの見える体たらくを
いやというほどさらけ出したが、
しかし、
こう言ってよければ、
博愛心という固定観念を依然として存続するそ奴は
現前すると同時に不在でもある畏友
ということになるやもしれなかった。
(丸山健二「我ら亡きあと津波よ来たれ」下巻502頁)