丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
ーかけ離れた語と語なのに、ぴったり結びつく比喩の愉しさー
丸山先生に比喩のことを何やら訊いたとき、「これからもどんな比喩が生み出せるか挑戦はずっとつづく」的なことを言われていた記憶がある。
丸山先生の考える思いがけない比喩を目にすると、日常のグダグダした思考からバッサリ切り離してくれるようで、私は爽快感を感じる。
でも比喩のウルトラCに「ついていけない」という思いの読者も多くなってしまったのかもしれない。
ただ「黒死館殺人事件」の中で、小栗虫太郎もギリシャの哲学者の言葉として「比喩には隔絶したものを選べ」と書いている。
結びつかないものを言葉の力で結びつける発想力……が、詩歌や散文を読んだり、書いたする楽しみの一つだと思う。
残念ながら、実用的な文章読解力要請を目指すという昨今の国語教育を受けてきたり、心地よくストレートに感動できるアニメだけで育ってしまうと、こうした比喩の面白みが分からない人が多いのではないだろうか……と残念に思う。
私も理解できたとは言えないけれど、丸山先生ならではの比喩に心惹かれ、答えは出ないけれどなぜこうなるのだろうと、せっせと駄文を連ねる。
さて以下引用部分は、津波から助かった青年の心境が海辺へと降りてゆく途中でだんだん変わる過程を書いている。
「急務でも背負う」と「こけつまろびつ」でよろよろ海へと下る姿が浮かぶ。
「危ない状況から生まれた忌まわしい怪物」で津波に衝撃を受けた青年の姿が見えてくる。
「はてさて、」で軽やかに風向きが変わる。
「発酵状態にある」「良識」も「有機的な」「心情」も目にしない語の組み合わせなんだけど、こうして結びつけると強く頷ける表現。
「ありうべからざる」と「正しい位置」の組み合わせも強烈に心に残る。
「死者と」「紙一重の」「倦み疲れた心身の持ち主」も新鮮な言葉の組み合わせだけど、思いがひしひしと伝わってくる。
「サンドブラストに掛けられた鉄錆のように」「きれいに滅しかけたのだ。」という組み合わせも鮮やか。
サンドブラストで始まるこの一文が好きなので、今日の文を書こうと思った次第。
すると、
あたかもより本質的な当面の急務でも背負うかのようにして
こけつまろびつしながら海へと近づいて行くおれ自身が、
かくもふさわしい状況のもとで
実在の一定の調和を保っているかのように思え、
さもなければ
危ない状況から生まれた忌まわしい怪物にでもなった気分で、
はてさて、
その根拠についてはまるで想像つかないのだが
少なくともかつては存在しなかった人生の幸福な瞬間を感じていることは確かで、
発酵状態にある良識と同様
常に有機的な心情を胸に忍ばせながらも
これまで疎んじられてきた穏やかな感情が勝手にぐんぐん膨張し、
ついで、
存在の基準を自己のうちに持つゆるぎない立場がはっきりと自覚され、
共存不能なものなど皆無であることがつくづくと思い知らされ、
どこまでも意味に即した迫真の観念が充分にありうるものとして解釈され、
連綿とつづく精神性の上昇発達がとてもあざやかに認識され、
ありうべからざる正しい位置につけたような心地になり、
きのうまでは死者と紙一重の倦み疲れた心身の持ち主だった記憶が
跡かたもなくかき消され、
かくして、
苦痛と死をもたらす人生最後の問題にはありがちな
精力を消耗するばかりの息が詰まる思いも、
サンドブラストに掛けられた鉄錆のように
きれいに滅しかけたのだ。
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻287頁)