丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻を少し読む
ー平仮名の副詞を多用するか、漢字を多用するかで文体の印象が違ってくる気がするー
大津波を逃げのびた青年が、周りに生者が誰もいない状況で、徐々に落ち着きを取り戻して物思う場面。
このとき青年の心を駆けぬける思いの数々、
「国家にがんじがらめに縛りつけられていない」
「集団社会がもはや成り立っていない」
などは丸山先生が大事にされている考えとも重なる。
災害ですべてが崩れたとき、こうした考えが蘇るかどうかはわからないが、でも心に響く言葉だと思った。
引用箇所は同じ箇所からだが、途中で色を変えてみた。
写している途中で、前半、後半で文体が少し違うかも……という気がしたのだ。
前半紫字部分は「きれいさっぱり」「がんじがらめに」「もはや」「あっさりと」などの平仮名の副詞が文の色合いを深め、スピード感を増しているような感じがした。
後半赤字部分は、多用されている漢字のせいで、しっかり確立してゆく精神が表現されている気がしたのだが……。
ひいては、
自由を支配する普遍的な秩序がきれいさっぱり消え失せていることに気づき、
がっちりと形成された国家にがんじがらめに縛りつけられていない立場を思い知り、
個人を堕落させて窒息させる集団社会がもはや成り立っていないことを発見し、
さらには、
これまでしがみついてきた歪みのない尺度のあれこれをあっさりと棄て去り、
再評価すべき頑強な精神力に期待したくなり、
辺鄙な土地でくり広げられる粗雑な人生がそうでないものに感じられ、
そして、
野蛮な状態へ投げこまれた無用ながらくたという自覚がすっかり影をひそめ、
精神の存立に必要不可欠な感覚的世界が一段と輝きを増し、
孤独への倦怠を恐れながらも自己に専念することが可能に思え、
思考の細部の価値を捨象する作用が働き始め、
生の糸を切断しかねない無力感の残渣がすっとかき消えたのだ。
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」上巻235頁)