丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻を少し読む
ー丸山作品にトリスタン・ツァラ的精神を感じるー
丸山作品は後期になるにつれてストーリー性がどんどん薄くなって、言葉と記憶の断章の世界になってゆく……というようなことがよく言われている。
私もそう思う。
だがストーリー性が薄くなることを、難しくなるように捉えている人が多いが、果たしてそうなのだろうか?
学生時代、ダダやシュールレアリスムのフランス詩界隈が専門だった私にすれば、赤の他人がこしらえたストーリーにのって追体験することの方がはるかに難しく感じられる。
さらに他人が創ったストーリーを隅々まで記憶している人に出会うとびっくりする。
私は言葉は記憶しても、ストーリーはすぐに忘れてしまうところがある。
さて後期の丸山先生の作品を読んでいると、ダダの詩人トリスタン・ツァラの「帽子の中の言葉」を思い出す。
新聞の単語をチョキチョキ鋏で切って、帽子の中に入れて、取り出した単語を並べて、そのまま詩にする……というダダの詩の試みだ。
「帽子の中の言葉」というのは一種のポーズのような部分があるかもしれないが、アトランダムに並べられた言葉には機能性や意味性の手垢にまみれていない美しさを感じた。
後期の丸山作品にも、まったく思いがけない言葉と言葉を組み合わせることで、ある種の美しさが生まれ、新しい小宇宙が続々と誕生するような気がする。
トリスタン・ツァラで文学に触れた私にすれば、人生のカウントダウンをそろそろしようかな……というときに日本のトリスタン・ツァラと言いたくなる丸山文学に出会ったのは必然かも……と言うか、また出発点に戻ったという気がする。
思いもよらない言葉と言葉、概念と概念が出会って生まれる比喩の世界。面白いと思った箇所を抜き出してみた。
どこが面白いと思ったか分かって頂けるだろうか?
夕影がゆらめく生者と死者の夢幻的な境界という
神仏ですらうかつに接近できぬ帯域に身を置くことになり、
すると、
数千年ものあいだ収蔵されていた古文書を
なんの注釈を付けずにいきなり見せられたときに似た戸惑いを感じてしまい、
見境もなく我を忘れる混乱の終盤のあたりで
全的な人格崩壊に突き落とされ、
意味と尊厳を具えていたはずの人生が
たちまちにして没落してしまったのだ。
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻467頁)
妙音を奏でながら田園地帯を通過する村時雨のさなか
無紋の布地のごとき心になったかと思うと
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻473頁)
あたかも、
単調な歌を詠唱しながら
畜舎から逃げだした仔牛を連れ帰る農夫が味わうような、
心の堡塁のなかに
好ましい追憶と夢だけを集めることに成功したような、
さもなければ、
よもやま話を満載した夜船とすれ違うときにも似た
そんな豊かな印象をおぼえたような、
希望の光が射し始めたとしか聞こえぬ
年季の入った鳥笛の音を耳にしたような、
昔語りに時を忘れる懐かしき人々のかたわらを
そっと通り過ぎて行くような、
底なしに深い安堵感と
けっして限界づけられぬ崇高な陶酔感に
いっぱいに満たされた。
(丸山健二「我ら亡きあとに津波よ来たれ」下巻473頁)