丸山健二「風死す」1巻を少し再読する
ー丸山文学には、もう一人の自分がよく出てきますね=
〈絶望の覇者〉について語る以下引用箇所は、さながら絵画を観ているような心地がしてくる。
丸山先生は、音楽を繰り返し聴いて、その旋律のイメージを言葉にする……と語られ、「音楽 → 耳 → 脳 → 文字」というように音楽が文字になることを語られていた。
絵画から文章が浮かんでくることはないのだろうか……と、この文章にふと思った。
よしや最期の日がきょうであったとしても 黒い馬に跨って死の坑道を通って迫りくる
〈絶望の覇者〉の姿が鮮明になり 精神界における望みなき紛糾が一段と活発化し
(丸山健二「風死す」1巻128頁)
以下引用箇所。「もう一人の自分(別な人格を有する自分)」は、「風死す」の、丸山文学の大きなテーマだと思う。
ただ自分が、もう一人の自分と対話しているのだから、おそらく矛盾や齟齬もあるのかもしれない。
私は「もう一人の自分」が出てくる時は、あまり意味にこだわらず、視覚的イメージや音楽のような、シンフォニーのような、文章の流れを楽しむことにしている。
少なくとも上辺だけは満ち足りているように思える世間が 見渡す限りを埋め尽くして
おそらく自身が案出したであろう悪事の芽が 次々と萌え出でる青春の真っ最中に
「心底からそうしたいのか?」と問うたのに対して 別な人格を有する自分は
「ほかに道はないのだ」ときっぱり答え 両者は互いに策応して事を運び
強烈な指示を出す運命に決然と挺身し そのための権勢を執拗に求め
(丸山健二「風死す」1巻135頁)