丸山健二「千日の瑠璃 終結2」二月十六日を読む
ー「見る」とは?ー
二月十六日は「私は炎だ」で始まる。盲目の少女の前に置かれ、やがて消えてしまうロウソクの炎が語る。
以下、三箇所からの引用文。
盲目の少女の目、世一の目に映る炎、世一の心眼に焼きついた炎、それぞれが描写されている。
同じ「見る」行為とはいえ、どこで見るのか、どう映るのかは様々なのだと思う。
そして書き手が言葉によって読み手に「見せる」行為とは……とも考える。それは最後の引用文にあるように、読み手の心眼に時も次元も超えた炎を宿らせることなのではないだろうか……そんなことも思った。
少女の見えない目と
彼女の膝の上にちょこなんと座っている白い仔犬の純一無垢な瞳には
それぞれ私が鮮やかに映じており
その四つの虚像は
ひとつの実像をはるかに超越した
かなり見事なものであり、
しかしながら
彼女の魂に結ばれた映像の素晴らしさには
遠く及ばず、
(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」155頁)
もちろん少年の目にも私が映っており
ところが
彼の瞳のなかの私ときたら
なぜか虚像ですらないほど頼りなく、
にもかかわらず
実像より数倍も生々しいのは
いったいどうしたことだろう?
(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)
瞬時にして少年の心眼に焼き付いた私は
またしても激しくなってきた雪のなかを
いかにも危なかっしくゆらゆらと揺れながらも
けっして消えることなく
まほろ町のあちこちを
住民たちの有りようを照らしつつ
どこまでも進んで行く。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結2」157頁)