丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む
ー見えない「矛盾」がふらふらする場面では「あ音」が多くなっている!ー
十二月十一日は「私は矛盾だ」で始まる。
うたかた湖に生徒と出かけた教師が「白鳥と人間の命の重さになんらの差はない」と説く。
生徒たちは教師の話に感激しながら「面白半分で世一のことを突き飛ばし」てしまう。
気づいた貸ボート屋のおやじは白鳥の餌やりを中断する。
そして「弱い者いじめをした子どものひとりひとり」に「猛烈な平手打ちを食らわせたのだ」。
教師は「子どもに暴力を揮うような者に白鳥を愛する資格はない」と言う。
おやじの方は「自然の大切さを教える前に 弱者をどう扱うべきか」教えるようと言う。
以下引用文。
このどっちにも言い分のある矛盾した主張の最中、白鳥と世一が食パンの耳を巡っての大騒ぎを起こす。
「矛盾」が身の置き所を失って、天に、地に彷徨う。
この箇所は、入力していて「あ音」が多いのに気がついた。
「あ音」はひらけるイメージ、浮上するイメージがあるようにも思う。
丸山先生はそこまで意識されたのだろうか。
矛盾という目に見えないものが、ふらふら彷徨う様を書いているうちに、知らずと「あ音」が多くなったのかもしれない。
そして私は
身の置き所を失ったことで破れかぶれとなり、
あげくに
風船のように膨らんで空中へと逃れてから
喧騒の上空をすいすいと飛び回り、
あるいは
岸辺に打ち寄せる単調な波と戯れ、
あるいはまた
桟橋の突端に舞い降りるや
冷徹自若として佇んだ。
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」289ページ