丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む
ー宿が生きているように思えてくる文の不思議さー
十二月十二日は「私は宿だ」で始まる。かなり歴史のある、でも古びた感じのある宿が語り手である。
宿の名前は「三光鳥」、ここでも鳥が使われている。「千日の瑠璃」では、あるいは丸山先生にとって鳥はライフワーク的存在なのかもしれない。
以下引用文。「呑みこんでは吐き出し」を繰り返すことで、宿に生命が宿っているような気がして、宿が語るということに不自然さがなくなってくる。
そんな客を呑みこんでは吐き出し
吐き出しては呑みこみながら
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」290ページ)
以下引用文。どの語り手のときも、世一がさりげなく登場してその存在が語られてゆく。ここでは「水と土のちょうど境目辺り」「陽炎のごとく」「色即是空を地でゆく」と表現されることで、世一の現実離れした不思議さが伝わってくる。
今朝方女将は
わが敷地の一部になっている湖岸で
水と土のちょうど境目辺りに
陽炎のごとくゆらゆらと揺れている
色即是空を地でゆくような存在の少年を
見るともなしに見て、
(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」293ページ)